スピカのなんとか生きる日記

30代、男、ゲイ、毒親育ち、現在無職のなんとか生きる日記

優等生の荒くれ思春期

中学生、制服、少し大人になった気分。
見たことない子もいっぱい。

 

プリテンダー

中学校生活は、両極端だった

学校生活の面では発見が多かった。
目標を見つけて達成する面白さ、努力、風変わりではみ出していた人間が、ある種認められることにより集団内で獲得するポジション。

家庭生活の面では、外に隠しておかなければならないことが増えていった。
どんどんおかしくなる母、母に手を挙げてしまう私、ひとり暮らし。

 

中学1年生

この頃、母はすっかり学校生活に関わる手続きをしなくなっていた。
というか、私と関わることを、私も母と関わることをやめてしまっていた。
親戚が代わりに事務手続をやってくれた(保護者面談も)。

初めての定期テスト。割と好感触だった。クラスの中で上位。
塾には通い続けていたが、小学生の頃は上位になることはなかった。
『あ、やればできるんだ』初めて思った。勉強も運動も芸術も、どれをとっても特に特技がなく、褒められたこともなかった私。追い風が吹いている気がした。

『これはチャンスだ』、偶然に意味を見出した。
そこから成績は右肩上がりに上がり始めた。学校の授業も、塾も、家での勉強も楽しくて仕方がなかった。

今思うと、『勉強そのもの』ではなく、やったら結果がついてくること、点数が出ることがゲームのようで楽しかった

取り柄のない『おかま』の子が、やっと社会で調子に乗れる、頑張れるフィールドを見つけた気がした。

仮想敵(ライバル)を作ったり、目標点を設けたりして、勉強をするようになっていった。

中学に入ると、ひとり部屋になり、折り畳みの机を買い、自分の部屋に自由に電気をつけることができた。冷暖房器具はないが、マイルームは快適だった。音楽や深夜のラジオが友達だった。

ただ、酔った母は、以前にも増して状態が悪くなった。
悪態をついたり、酒を飲みに出たはいいが、家の金を使い込んだり、ツケで飲んだりして私を困らせた。
母がお金の管理をできないため、お金は近所の祖母にお願いすることとにした。私は週に1〜2回、その週の自分の分の生活費を受け取りに行くことになった。
流石に子どもだったので、あればあるだけ使ってしまうリスクを考えてのことだったと思う。
それに週に数回は、祖母の家に顔を見せるので生存確認もする意味があったと思う。たまに料理を食べさせてもらった。

母には、まともになって欲しいと言っても、願ってもどうにもならなかった。
彼女に期待しなくなったはずだったが、まだ、親に対して子が本気で願えば『どこかで変わってくれる』と淡い期待をしていた。

この頃はまだ、人が人を変えることは不可能とは知らなかった

金を使い込んで、泥酔して帰ってきた日は、私は母を叩いた。
勝手に使いこみ、家賃が払えなくなることもあった。
大家に嫌味を言われるのは、支払いに行く私だった。許せなかった。

『あぁ、死んでくれれば良いのに』と思った
泣きながら母が叫ぶ、『あんたなんか産まなきゃ良かった』に対して、『誰が産んでくれと頼んだ』と答えるくらいに、私の内面は荒んでいた

勝手に産んで、勝手に捨てて、勝手に拾って、勝手に放置。

それでも分かってもらえると思い、自分の思いの行き場が分からず衝動で手が出る、悪手。
やってはならない禁忌。私の罪。この頃私は最低だった。

勉強のできる子を演じながら、そんな荒くれ者もやっていた。どちらも私だった。


去る者は去る、そういう運命

あぁ、なんとか繋ぎ止めようと祈っても、力で訴えても、離れていくものは立ち止まってすらくれない。無力。
足元に縋って泣きついても、心離れた人にとってはそれはただ邪魔で煩いだけ。黙って見送るしかない。
引き留めようとすればするほど、自分が虚しくなる。
そこで、自分を変わろうとしても、変えても、結果は同じ。

相手が消えてしまわないか、捨てられないかと相手の顔色を伺うようになるだけで、そんなの幸せじゃない
そのうち自分に惨めさが疲れ果て、自分自身が嫌いになる。

苦難が喉元を過ぎ去って過去の思い出話になった頃、私は親子関係からそう学んだ。
そしてこれは他の人間関係でも同じだと悟った。心離れたものを繋ぎ止める術は何一つない、と。去る者は去る、不可避

 

『強い』は損、甘えたもん勝ち

口論、暴力に嫌気がさした母はまた消えた。出て行っては帰らない日が続いた。仕方ないことだ。

どこで知り合ったか知らない男の部屋に転がり込んだらしい。

私は、一人で暮らしていた。夜ひとりで電気やテレビを消して眠れるようになっていた。朝は目覚ましで起き、たまには学校に冷凍食品で作ったお弁当を持参した。

しばしば親戚達から、『一人で育って偉いね』、『若いうちの苦労はしておいて損はないよ』、『強いね』と言われた

強くない方が、人から施しを受けられて得だな、と冷めた気持ちで聞いていた。

手のかかる他の子達の方が、一人で何もできない彼ら彼女らの方が、ずっと愛されているし大切にされていて、私はやらなくていい苦労をしているなと。

学校でも、聞き分けの良い子より、聞き分けがなく人に迷惑をかける不良の方が先生が世話を焼く。手をかける時間がかかればかかるほど、物理的な接触が増え、愛されるような気がしていた。

実際むしろ苦労せずのびのびと育った方が、社会に出て上手くいくことを知り、絶望に打ちひしがれるのはもっと後の話、そう30過ぎた今だ。 

後々、浜崎あゆみの『A Song For XX』を聞いたとき、自分のことを歌っているような、私のための歌のような気持ちになった。
彼女の1stアルバム表題曲で、力が入った曲だっただろう。その分、本人のリアルさ、切実さを本気でぶつけている、嘘のない歌詞だと感じた。未だに聞くと、うるっと来るほど。

親戚は所詮親戚で、『親族』ではあるものの『家族』ではない。しかも親戚は『親』ではないので、駄々をこねたり、甘えたりすることはできない
私の世話を多少なりともしてくれることは、当然なことではないため、恩義を感じねばならないと考えていた。
甘えられない、世話になっている人。

だから当然私は、彼らに対していつも遠慮がちであった。大人の態度で、聞き分けよく接さなければと思っていた。


秘密の一人暮らし(の秘密)

家出した母は荒れていた。自分の自由を追求しすぎるあまり、他人にことごとく迷惑をかけていた。

酒に酔い道端で寝ているところを通報され、警察に運ばれてきたこともある。
ひとりでテレビを見ていた夜、家の庭がいきなり懐中電灯で照らされ、数人の男の声が外から聞こえる。強盗だったらどうしよう、とヒヤリ。
じーっと静かにしていると、ガラス戸がノックされ、渋々開けると警察が立っていた。
一人で暮らしている私は、逮捕されるかと思った。一瞬のうちに頭が真っ白になった。

その警察の後ろに酩酊した母がいた。

他に大変なことも色々あった。
夜中の急な腹痛や吐き気。我慢してもしきれなくなった頃、電話で母の携帯電話へ連絡をした(中学校に上がることには電話をどうにか手に入れていた、生活保護でも電話持って良いんだと喜んだ)。直ぐには繋がらず、痛みに苛立ちながらかけ続けた。

どうにか母に帰ってきてもらい、救急病院へ行った。
咄嗟になると、親戚には迷惑をかけられないと思ってしまったし、救急車を呼ぶという考えも浮かばなかった。近所との付き合いもなかった。

急性胃腸炎で数日入院した。

母は帰ってきたが、また直ぐ出ていくだろうなという予感がした。案の定、学校から帰ると消えていた。

しっかりした体(てい)でやっていたが、危ない事故もなかったわけではない。
ボヤだ。
ペットボトルのお茶についていたおまけのお香が原因、今でも覚えている。
良い香りかなと、家にあった母のライターでつけてみた。

炊き終わったのを確認した後、お香とその容器をゴミ箱へ『きちんと』捨てた。
別の部屋でテレビを見ていると、やけに目が痛い。開けてられないくらいで、心なしか部屋に煙が充満しているようだ。窓を開けて換気をしてみるもまだ煙い。

ふと、隣の部屋を見ると襖の隙間から黒い煙がもくもく。
その瞬間やっと火事、と理解した。

消防車を呼ぶ?母か親戚に電話をする?近所の人に知らせる?
それはひとりで住んでいる特殊な状況を知られることになるし、親戚には『ちゃんと』一人で暮らして偉い私を演じなければならないし、親戚に迷惑をかけたくはない。
母に連絡がつく頃には全焼して、近所の貧乏長屋に延焼、結果全焼してしまう。

目の前の煙を前に、私は、自分で消すしかなかった。

火は、部屋の角のみ燃え上がっており、幸い天井まで回っていなかった。
『火を消すときは、酸素を断つ』と習った気がした。自分の頭より少し高いところまで火は登っていたが、『いける』と思った。

自分の使っていた布団、毛布、手近にあったお気に入りのコート、その辺にある厚い布を総動員し火に被せた。
布団を足で踏んで消化したので、足が火傷して少しただれた。なんとか火が止まった。

だが、鎮火してもやるべきことがあった。

焼けこげた障子、燃えた畳、消火に使った布団、それと部屋の焦げ臭さ。
母が帰ってきたら、親戚が来たら、バレてめんどくさいことになってしまう。
これを機に母が正常に戻るとも思えない。
それに一番気にかかっていたのは、修理するにも金がかかること。

『一旦、なかったことにしよう』と思った。

燃えた畳はベッドの下に隠された綺麗な畳と入換え、障子も押入れの障子と向きを変えて入れ直し、布団と服はすぐに捨てた。
匂いだけ最後まで残った。ファブリーズや消臭剤ではどうしようもない。焦げ臭さで、生活するのが難しいくらいだった。

それからしばらく家の窓を開け放って生活をした。真冬だった。

その後、母が帰ってきた時も、シラフの親戚が訪ねてきた時も、気づかれなかった。
一度、『あのお気に入りのコートどうしたの』と聞かれたとき、返答に困ったくらいだった。

学校では勉強のできるちょっと普通じゃない子、家庭では荒んだ一人暮らしをする子、外では大人の男性に声をかけられる子だった。いろんな方面に話せないことが増えていった。(続く)