優等生の荒くれ思春期
中学生、制服、少し大人になった気分。
見たことない子もいっぱい。
プリテンダー
中学校生活は、両極端だった。
学校生活の面では発見が多かった。
目標を見つけて達成する面白さ、努力、風変わりではみ出していた人間が、ある種認められることにより集団内で獲得するポジション。
家庭生活の面では、外に隠しておかなければならないことが増えていった。
どんどんおかしくなる母、母に手を挙げてしまう私、ひとり暮らし。
中学1年生
この頃、母はすっかり私に関わる世話を一切やらなくなっていた。
というか、親子として関わることを、私も母もやめてしまっていた。
親戚が代わりに事務手続をやってくれた(保護者面談も)。
初めての定期テスト。割と好感触だった。クラスの中で上位。
塾には通い続けていたが、小学生の頃は上位になることはなかった。
『あ、やればできるんだ』初めて思った。
勉強も運動も芸術も、どれをとっても特に特技がなく、褒められたこともなかった私。
追い風が吹いていると直感した。
『これはチャンスだ』、偶然に意味を見出した。
そこから成績は右肩上がりに上がり始めた。
学校の授業も、塾も、家での勉強も楽しくて仕方がなかった。
『勉強そのもの』ではなく、やったら結果がついてくること、点数が出ることがゲームのようで楽しかった。
取り柄のない『おかま』の子が、やっと社会で調子に乗れる、頑張れるフィールドを見つけた気がした。
仮想敵(ライバル)を作ったり、目標点を設けたりして、勉強をするようになっていった。
中学に入るとひとり部屋になり、折り畳みの机を買い、自分の部屋に自由に電気をつけることができた。
冷暖房器具はないが、マイルームは快適だった。音楽や深夜のラジオが友達だった。
ただ、酔った母は、以前にも増して状態が悪くなった。
悪態をついたり、酒を飲みに出たはいいが、家の金を使い込んだり、ツケで飲んだりして私を困らせた。
母がお金の管理をできないため、管理を近所の祖母にお願いすることとにした。
私は週に1〜2回、その週の自分の分の生活費を受け取りに行くことになった。
流石に子どもだったので、あればあるだけ使ってしまうリスクを考えてのことだったと思う。
それに週に数回は、祖母の家に顔を見せるので生存確認もする意味があったと思う。
たまに料理を食べさせてもらった。
母には、まともになって欲しいと言っても、願ってもどうにもならなかった。
彼女に期待しなくなったはずだったが、まだ、親に対して子が本気で願えば『どこかで変わってくれる』と淡い期待をしていた。
この頃はまだ、人が人を変えることは不可能とは知らなかった。
金を使い込んで、泥酔して帰ってきた日は、私は母をぶった。
勝手に使いこみ、家賃が払えなくなることもあった。
大家に嫌味を言われるのは、支払いに行く私だった。許せなかった。
『あぁ、死んでくれれば良いのに』と思った。
泣きながら母が叫ぶ、『あんたなんか産まなきゃ良かった』に対して、『誰が産んでくれと頼んだ』と答えるくらいに、私の内面は荒んでいた。
勝手に産んで、勝手に捨てて、勝手に拾って、勝手に放置。
それでも分かってもらえると思い、自分の思いの行き場が分からず衝動で手が出る、悪手。
やってはならない禁忌。私の罪。その点においては、私は最低だった。
勉強のできる子を演じながら、そんな荒くれ者もやっていた。どちらも私だった。
去る者は去る、そういう運命
あぁ、なんとか繋ぎ止めようと祈っても、力で訴えても、離れていくものは立ち止まってすらくれない。無力。
足元に縋って泣きついても、心離れた人にとってはそれはただ邪魔で煩いだけ。
黙って見送るしかない。
引き留めようとすればするほど、自分が虚しくなる。
そこで、自分を変えようとしても、運よく変えても、結果は同じ。
仮に気まぐれに立ち止まってくれたとして、相手が消えてしまわないか、捨てられないかと相手の顔色を伺うようになるだけで、そんなの幸せじゃない。
そのうち自分の惨めさに疲れ果て、自分自身が嫌いになる。
苦難が喉元を過ぎ去って過去の思い出話になった頃、私は親子関係からそう学んだ。
そしてこれは他の人間関係でも同じだと悟った。心離れたものを繋ぎ止める術は何一つない、と。去る者は去る、不可避。
『強い』は損、甘えたもん勝ち
口論、暴力に嫌気がさした母はまた消えた。出て行っては帰らない日が続いた。仕方ないことだ。
どこで知り合ったか知らない男の部屋に転がり込んだらしい。
私は一人で暮らしていた。夜ひとりで電気やテレビを消して眠れるようになっていた。
朝は目覚ましで起き、たまには冷凍食品で作ったお弁当を持参した。
しばしば親戚達から、『一人で育って偉いね』、『若いうちの苦労はしておいて損はないよ』、『強いね』と言われた。
強くない方が、人から施しを受けられて得だな、と冷めた気持ちで聞いていた。
手のかかる他の子達の方が、一人で何もできない彼ら彼女らの方が、ずっと愛されているし大切にされていて、私はやらなくていい苦労をしているなと、真理を理解していた。
学校でも、聞き分けの良い子より、聞き分けがなく人に迷惑をかける不良の方が先生が世話を焼く。
手をかける時間がかかればかかるほど、物理的な接触が増え、愛されるような気がしていた。
実際、むしろ苦労せずのびのびと育った方が、社会に出て上手くいくことを知り、絶望に打ちひしがれるのはもっと後の話、そう30過ぎた今。
後々、浜崎あゆみの『A Song For XX』を聞いたとき、自分のことを歌っているような、私のための歌のような気持ちになり泣いた。
彼女の1stアルバム表題曲で、力の、感情の入りようが段違いな曲。
本人のリアルさ、切実さを本気でぶつけている、嘘のない歌詞。
親戚は所詮親戚で、『親族』ではあるものの『家族』ではない。
しかも『親』ではないので、駄々をこねたり、甘えたりすることはできない。
私の世話を多少なりともしてくれることは、当然なことではないため、恩義を感じねばならないと考えていた。
甘えられない、世話になっている人。
だから当然私は、彼らに対していつも遠慮がちであった。
大人の態度で、聞き分けよく接さなければと思っていた。
秘密の一人暮らし(の秘密)
家出した母は荒れていた。
自分の自由を追求しすぎるあまり、他人にことごとく迷惑をかけていた。
酒に酔い道の真ん中で寝ているところを通報され、警察に運ばれて来たこともある。
ひとりでテレビを見ていた冬の夜、家の庭がいきなり懐中電灯で照らされ、数人の男の声が外から聞こえる。
強盗だったらどうしよう、とヒヤリ。
じーっと静かにしていると、ガラス戸がノックされ、渋々開けると警察が立っていた。
一人で暮らしている私は、逮捕されるかと思った。頭が真っ白になった。
その警察の後ろに酩酊した母がいた。
他に大変なことも色々あった。
夜中の急な腹痛や吐き気。我慢してもしきれなくなった頃、電話で母の携帯電話へ連絡をした(中学校に上がることには電話をどうにか手に入れていた、生活保護でも電話持って良いんだと喜んだ)。
直ぐには繋がらず、痛みに苛立ちながらかけ続けた。
どうにか母に帰ってきてもらい、救急病院へ行った。
咄嗟になると、親戚には迷惑をかけられないと思ってしまったし、救急車を呼ぶという考えも浮かばなかった。近所との付き合いもなかった。
急性胃腸炎で数日入院した。
母は帰ってきたが、また直ぐ出ていくだろうなという予感がした。
案の定、学校から帰ると彼女の姿はなかった。
しっかりした体(てい)でやっていたが、危ない事故もなかったわけではない。
小火(ボヤ)だ。
ペットボトルのお茶についていたおまけのお香が原因、今でも覚えている。
良い香りかなと、家にあった母のライターでつけてみた。
炊き終わったのを確認した後、お香とその容器をゴミ箱へ『きちんと』捨てた。
別の部屋でテレビを見ていると、やけに目が痛い。開けてられないくらいで、心なしか部屋に煙が充満しているようだ。
窓を開けて換気をしてみるもまだ煙い。
ふと、隣の部屋を見ると襖の隙間から黒い煙がもくもく。
その瞬間やっと火事、と理解した。
『消防車を呼ぶ?母か親戚に電話をする?近所の人に知らせる?』
それは子どもの一人ぐらしという特殊な状況を知られることになる。
親戚には『ちゃんと』一人で暮らして偉い私を演じなければならないし、親戚に迷惑をかけたくはない。
母に連絡がつく頃には全焼して、近所の貧乏長屋に延焼、結果全焼してしまう。
目の前の煙を前に、私は、自分で消すしかなかった。
火は、部屋の一角のみ燃え上がっており、幸い天井まで回っていなかった。
『火を消すときは、酸素を断つ』と習った、理科で。
自分の頭より少し高いところまで火は登っていたが、『いける』と思った。
使っていた布団、毛布、手近にあったお気に入りのコート、その辺にある厚い布を総動員し火に被せた。
布団を足で踏んで消化したので、足が火傷して少しただれた。なんとか火が止まった。
だが、鎮火してもやるべきことがあった。
焼けこげた障子、燃えた畳、消火に使った布団、それと部屋の焦げ臭さ。
母が帰ってきたら、親戚が来たら、バレてめんどくさいことになってしまう。
これを機に母が正常に戻るとも思えない。
それに一番気にかかっていたのは、貧乏長屋の原状回復。
『一旦、なかったことにしよう』と思った。
燃えた畳はベッドの下に隠された綺麗な畳と入換え、障子も押入れの障子と向きを変えて入れ直し、布団と服はすぐに捨てた。
匂いだけ最後まで残った。
ファブリーズや消臭剤ではどうしようもない。焦げ臭さで、生活するのが難しいくらいだった。
それからしばらく家の窓を開け放って生活をした。真冬だった。
その後、母が帰ってきた時も、シラフの親戚が訪ねてきた時も、気づかれなかった。
一度、『あのお気に入りのコートどうしたの』と聞かれたとき、返答に困ったくらいだった。
誰も私のことも注意深く見てはいない証左。
学校では勉強のできるちょっと普通じゃない子、家庭では荒んだ一人暮らしをする子、外では大人の男性に声をかけられる子だった。
年を取る毎にいろんな方面に話せないことが増えていった。(続く)