ほんとうの意味での『ひとり暮らし』
生活保護から抜けて、自分の国民健康保険証を作った。
もう生活保護の子として、生活が守られなくなった。
病院にはあまり行かないようにしないとな、と誓った(直ぐ歯医者に通うこととなる)。
国民年金は猶予の申請。
年取った時に払ってくれるかどうか分からないもん払ってる余裕なんてない。
今日を生き延びなきゃ。
大学1年生〜Dropout〜
大学では、寮に入った。
寮は今まで経験したことがないほど縦社会の、上下関係の厳しい世界だった。
大学の寮は学生が自治していた。
寮生たちの考える自治とは、縦社会で支配された汚い空間で、毎晩酒を飲み麻雀を打つということだった。
年齢の違う人との共同生活は孤児院でしていたが、こんなに合理性を感じられないルールに縛られてはいなかったと記憶している。
寮では、各学年が混合した相部屋で暮らすこととなった。
上級生がいる時は常に下座で正座、1学年上の先輩から敬語を間違うとチクチク注意を受ける。上級生の命令は絶対。
部屋は全室喫煙。実家を出て、やっとタバコから逃れられると思っていたら、相部屋はとてもスモーキーだった。
寮には門限があり破ることは許されないと教えられた。
風呂トイレは共同で、風呂はボイラー稼働の都合なのかなぜか上級生と一緒に。
寮の行事も多々あるらしく、その行事の期間は学業よりも専念することとなっているとのことだった。
先輩の中には留年している人も多かった。
家庭が貧しいから寮に入っているのに、寮に入って留年するというのが、大学生になりたての私としては全く理解できなかった。
運動部に所属したこともなく、ましてやゲイの私には、体育会系の組織、しかもその中で共同生活することは無理だった。
折角大学に来れたのに、大学よりも日常生活で苦労をするのか。母から離れてひとりで生きていくのに、次に待ち受けるものがこれか。『うまく行かねぇな』と悪態をつくほかなかった。
今思うと、ここで体育会的な素養を身につけることができれば、今より社会に適応できるまともな人間になれていたかもしれない・・・
そうこう考えている間の数日のうち、退寮した子がひとり。
同じタイミングで入寮した子たちも、『流石にこれは・・・』といった様子で、顔を合わせると『早く寮を出たいね』と言い合った。
上級生と同じ空間にいるという緊張であまり眠れない日が続いた。
粗相をしないように、間違えないように息を殺して生きた。
初めてのアルバイト代が入った頃、私は根を上げて、親戚に連絡をした。
『もう無理だ、寮を出たい。どうにかできないか。』と。
時間を作って、荷物を引き取りに来てくれることになった。
わざわざ。大学入学早々、負けてしまい迷惑をかけてしまう自分が情けなかった。
こういうときに簡単に甘えられる『親』というものが欲しいな、とつくづく思った。
次の家が見つかるまで、たまたま同じ高校出身の子が同じ学部にいたので、その子に頼み込み、数日泊まらせてもらうことにした。ありがたかった。
『いらないよ』と言ってくれたが、きちんと金一封をお渡しした。その頃は人の好意にタダで甘えるのは絶対にダメなこと、少しでも金銭的対価を払わねば、と頑なに考える癖があった。
その日のうちに、自分で不動産屋に行き、格安のアパートを見つけた。学校激チカ。
敷金と礼金もバイト代と奨学金でギリギリ賄えそうだった。
ただ、カツカツ過ぎたので奨学金を増額する申請をした。
未来の自分への負債が貯まるばかりだった。
高校までと同じように、自転車で生活できる範囲で生活した。
田舎の大学生ともなると原付や車を持っている子が多く、人と行動範囲が違った。
田舎だったので、電車などの公共交通機関はない。
車やバイクがないと、すぐに毎日同じ風景の繰り返しとなった。
大学でひとり暮らしになれば、恋人でもできるのかな、と淡い期待を抱いた。
引っ越したところで田舎。同じ嗜好の人が集まる場所などなく、そんな場所に出向くこともないので、ドキドキの予感すらなかった。
ただ、ひとりの狭い部屋は気楽で生きやすかった。
知らない土地、知らない部屋。家族や友達もいない。そんな春だった。
気になるの芽
人付き合いが苦手な私にとって、クラスという概念のない大学で友達を見つけるのは、目を瞑って針に糸を通すほどの難易度。
部活やサークルに入れば良かったが、今までスポーツをした経験もなく、上下関係に怯えてしまっていて、酒も苦手な私は、『上下関係、飲み会、ワイワイ』というサークルにも足を遠ざけてしまっていた。
『お金ないし』と色々事前に諦めていた癖が抜けず、新しいことに挑戦する、気になることをやってみる、気になることを見つけるという心の芽が、育たなくなっていた。
必要最低限のことだけをこなして、あとの余分なことはしない。我慢。
それに大学生活を成立させるには、まずはバイトしなきゃ学費払えないし、生活に慣れてからサークル入れるかも、と先延ばしにしてしまった。
後になると関係が固定化され、途中で入りづらいだろうということは考えてもいなかった。
これが本当に厄介な悪癖となった。心に好奇心を芽生えさせ、気になったらそちらに向かってみる。気になる自分を許すという作業を、暇な4年間でやっておかなければならなかった。
目の前生活を理由に、そういうのからは全部目を背けた。
大学の授業も、『ユリイカ!』と叫びたくなるものを見つけられなかった。
授業が悪いわけではなく、何にも興味がなかったのだ。
その割に、手に職をつけるとか公務員を目指すべく資格試験に励むとか、そんなことを考える頭はなかった。
私は、1年の間に暇な虚無に仕上がっていた。
苦労してPCを買う
大学2年生。
大学1年の間、自分のPCを持っていなかった、正確に言うと持てなかった(当時は今よりは高かった)。
レポートも学校のパソコン室に行き作成した。周りでPCを持っていないのは私くらいだった。人生で、私だけ『ない』と感じる寂しさをまた味わうことになるとは。とほほ。
1年かけて、やっとの思いでバイト代を貯めPCを買った。
家でレポートを書けるようになった。
インターネットも契約をした。家でネットにつながる便利さを知った。
iPodも買った。みんな持っていたやつ。音楽が外でも聞けるようになった。
昔より、幾分人に追いつけた気がした。
箸が転んでもおかしいのは幸せなこと
ゼミが始まった。
教授は、あまり人と関わることをしない、淡々としたタイプの男性。
今までも経験上なんとも苦手なタイプ。
ゼミ生としては、我の強い癖のある子が目にも鼻にもついた。
みんなどう仲良くなっていいかワカラナイ状態が半年くらい続いた。
我の強い子たちだけが喋り続けた。
ある日、仲良くなるために、みんなであだ名をつけて呼び合うようにした。
それが功を奏したのか、少し距離が縮まった。プライベートでも会うようになった。
そこからは、家に呼び合ったり、飲みに行ったりと仲良くなるまでに時間は掛からなかった。大学で、ようやく友達ができたと感じた。
バイト先も変えた。
バイト先には、偶然にも同じ大学の同級生が3人いた。
すぐに打ち解けた。
バイト終わり、家に集まり鍋をして、朝までゲームをするのが恒例となった。
今まで知らなかった。人と一緒にゲームをしたり、鍋をしたりするのがこんなに楽しいこととは。
ゼミやバイトの友達とは、よく腹を抱えて笑った。
道端に倒れ込んで転げて、呼吸困難になるくらい。
高校時代のような男女分かれたグループで、人の悪口か勉強や偏差値の話しかしない陰湿な環境ではなかった。
テレビ、音楽、恋愛、バイト、授業、将来、色々なことを気楽に話すことができた。
私が『ゲイっぽい』と言うことも特に誰も気にしなかった。何も聞かれなかった。
このグループの中では安心できた。
依然、私は将来のビジョンややりたいことなど考えてはいなかったが、冗談が通じる、一緒に笑える友達ができたので、大学生活を楽しく感じていた。(続く)