スピカのなんとか生きる日記

30代、男、ゲイ、毒親育ち、現在無職のなんとか生きる日記

似て非なるもの〜Who Is She?〜

安寧、決着、そして忘却〜中学3年生〜

初めての受験。成績はすこぶる良かった。学校以外でも1番をとった。
30数年生きてきて、今のところこれがこの世の春だった(これからまた春が来ることを祈るばかり)と思う。

井の中の蛙、人生の中で唯一調子に乗っていた時期だった。

『おかま』でも勉強ができたことによって、学校で虐げられるようなことはほとんどなかった。
特別好かれていたわけではないが、仲良い友達もおり、なんとか居場所を得ることができていた。

高校も難なく合格できた(私立の有名校だって合格できると塾や学校からは言われたが、到底私立なんていけるわけがないのは、自分自身が一番よく分かっていた)。

時期は全く覚えていないが、そこそこ長い入院期間を終えて母が退院した
長いひとり暮らしの終わりで、母が帰ってきてうまく一緒に暮らせるか不安だった。
帰ってきた母が、喫煙をするのも嫌だった。

母は、入院を機に当然断酒をしていた
そして遂に断酒を成功していた。病院の矯正力、素晴らしい。

それに、以前のように被害妄想に取り憑かれたり、幻覚を見たり、すぐにヒステリックになって怒鳴り散らすことはなくなっていた
本人の気質として、口論をする、言い返す癖はそのままだったが、大分マイルドになっていた。

前とは打って変わって、よく笑う。

外側は同じだが、中身をすり替えられてきたかのような感覚を覚えた。

ただ、物忘れが酷くなっていた。昨日のことが、さっきのことがよく思い出せない。何度言っても、紙に書いて復唱させても、ものを覚えられない。

昔のこと、本人が覚えておきたいことは覚えているが、最近の、生活する上で必要なことが覚えてられない。

ただ、私はすこぶる穏やかになった。
何度言っても、ものを覚えられない母にイライラしたが、昨年までの嵐のような日々はもうなかった。
あれと比べれば、よく笑う呆けた人の方が何倍も好ましかった。ようやく、落ち着いて生活ができると喜んだ。

 

グレるもの、正しく生きるのも難しかった

事情を知る祖母達からは、中学生活を通して、『よくグレなかったね』と言われることが多かった。実際には、母に対してはひどく荒れていて、正しくは生きれていなかった。
グレようにも、気持ち悪がられていたので不良の輪にも入れないし、グレるならグレるだけ金がかかることも分かっていた。

親から買ってもらうタバコ、貰った金で買う派手な服、うっかり出来たら堕すのも親の金。私には無理だ。

そこそこの家の子達の彼らが、なぜ非行に走るのかがよく分からなかった。
ヌルいとこで甘えてるな、甘えて歯向かってて羨ましいなと思っていた
そんなん甘噛みじゃん、と。少なくとも私の学校で非行にはしる子達にはそう思っていた。

母にも、親戚にも、楽しく話はできるがそれ以上ではない友達にも、グレてる人達にも、名前も知らない大人の男の人達にも、どこにも属せず、孤立している感覚で3年間を過ごした。


ハードアンドタフ

思い出すと、生きていて辛かったのがこの時期だった気がする。
生きていると、いつだって今が一番辛いと感じるが、私にとってはこの時期はハードでタフだった。

ふと思う。
母との喧嘩や、手を上げた報いを受けて、私はこれから幸せになれるのだろうか、私が幸せを感じないのはその報いなのだろうか、と。この人生は罰なのか。

ふと思う。
これまでの艱難辛苦の何一つ私が求めたものなんかじゃない、と。
求めていない運命への抗い方を間違って、罰を受ける人生なら最初から生まれたくなかった。
生まれてからの辛さも私に与えられた罰、辛さへの対処方法も正しい方法ではなかったので更に追加で罰。何したんだろ、私。

でも、いつかは絶対全部笑い話になる日が来るはず。(続く)