スピカのなんとか生きる日記

30代、男、ゲイ、毒親育ち、現在無職のなんとか生きる日記

人と比べられるものに幸せなんてない

ふと目に入った情報に心乱される:共感から乱心へ

無職も1年を過ぎた2024年のGW、いつものように自分には直接関係のない世の中のあーだこーだを集めるべくX(旧Twitter)をパトロール

雑多な情報の中、生活保護世帯から東大院を卒業し学者になった方のブログを紹介するポストを発見した。
『へぇ、すごいな、読んでみよ』と軽い気持ちでリンクを開いた。

ブログは、その方の家庭状況や頑張りが淡々と、冷静に、怒りや憤りも所々感じさせる文章で書き綴られていた。正直な言葉で。
生活保護世帯の子どもが進学する厳しさ、金銭的、精神的な辛さ
よその子を羨む気持ち、世の中の厳しさを大人になる前に知ってしまったが故のクールさ
頼ることのできない大人、孤独、孤独、孤独
共感するポイントがたくさん書き連ねられていた。
私がこの日記で書いてることが端的にわかりやすくまとめられていた。感服。

読み進めていくと、添付されたその方の模試の結果画像がふと目についた。
見覚えのあるオレンジと緑の結果票。

『あれ、これ私も受けたことあるやつ』
よく見ると、私と同じ地元の模試だった。高校受験前に受ける中学生用の県模試。
しかも志望校は同じ。

ブログの続きを読むと、その方は私と同じ高校へ出身らしかった
(すごい、あの県の、あの高校から東大とは・・・)

似てる条件、でも、できなかった私:劣等感

悔しい思いをしながらも、辛酸舐めて努力で人生勝ち取った人がいることに感銘を受けた

それと同時に、一瞬だが、それよりも重く、大きな劣等感が私を包み込んだ
『同じ生活保護、同じ田舎、同じ高校、育った属性や環境が似ている。』

似た条件なのに、
優秀な頭脳を持ち輝く人生を切り開く人。
過去に囚われ、都会に疲れて今や無職になって、結局何者にもなれない私
鮮やかな対比、生きてるのが恥ずかしい
こんなんで人生辛いとか言ってるなんて、私はただの甘え?
遺伝子、才能、努力、気合い、根性etc...何においても私はダメな人間。

このブログがどこか遠い国の人の話なら、『素敵な話』で終わっていたと思う。
でも、共通項がこうも重なるとその方と自分を比べざるを得なかった。

よくよくブログを読んでみると、その方は今の状況になるまでに、
生まれながらの才能はもとより、明確な人生計画を立て、悔しさに負けない気概と根気よく勉強を続ける努力をしていた。その若さで流石だ。
一方、私は学校に馴染むことも、勉強を続けることもしなかった。
才能もなかったし、逃げて腐った。
比べるのが烏滸がましいのは十分に分かっている。

でも、その努力を、その気概を、その根気を少しでも持てたなら・・・
私の人生にも『もしも』があれば、他の可能性が開けたかな・・・
憧れ。

バネにできない劣等感。
じわじわと脳内に拡がり始めた。

偶然に意味を見出してみる:メタな私曰く、、、

1年も何もしてないと、他人と関わる機会も減る。
他者との接点がないので、自己と他者を滅多矢鱈に比較するという自傷行為とんとしなくなり、ここ最近、私は心健やかであった。
人と接さないのって、楽。

自分だけのぬるま湯世界で安心しきった私。
例のブログは、そんな油断している私の劣等感をダイレクトに急襲した。
真夜中、寝る前のスマホタイムに。

いつもの如く、人と自分を比べて心がキリキリキリキリ痛み始めた。
どうしようもないことなのに自分を厳しい言葉で責め立て始めた

しかもそれは止まらない。
これは数日ダメージを引きづるな。これから先も、自分をいじめるエビデンスにして毎回引っ張り出してくる嫌な事例になるな。

だが、そのバッドアイデアが私を覆い尽くしてダークサイドに陥れる前に、
私の斜め上から、メタな私が現れた

彼曰く『今、このタイミングでこのブログに遭遇するのには偶然じゃなくて、メッセージ。なんならテスト。さっさとループから抜けなよ。

彼は畳み掛ける『また人と比べては劣等感感じて、自分から進んで不幸になるの?まだ比較できるステータスや勝ち負けが幸せそのものだと思ってるの?』と。

 

掴みかけている:真理っぽいもの、よく言われてるけど体得できないもの

あぁ、そうだった。
今までのスパイシーな人生で感じた怒りや悲しみ、そして諦念から。
無職期間の1年間、世を捨ててみて俯瞰できたことから。
尊敬する人の生きる姿勢から。
なんとなく掴みかけていることがあったんだっけな。
メタな私の語りかけから、ふと思い出す。

幸せ、人生、満足、喜びなんて、人と比べられるものではない、んだった。
『比べないことが大切』とよく啓発本やXで見るな。知ってはいるけど、実行できないやつ。
きっと、これ、真理っぽいもの。そう、ぼんやり見えてきている。モヤモヤ。

 

あんたの幸せっぽい瞬間ってどんなときなのよ?

メタな私は言う『もう少しブレイクダウン。そもそも私の幸せっぽい瞬間。それってどんな時?』。
そろそろ彼もイライラしているみたい。

そうだった。
大切な人々と過ごすとき。
彼ら/彼女らの幸せを祈るとき。
誰かの役に立っているとき。
ファッション、音楽、アートに触れているとき。
少し意地悪だけど面白い、他愛もない会話をするとき。
美味しいものを食べてるとき。
美しい景色を見てるとき。
お気に入りの場所で、お気に入りの紅茶を飲むとき。
お気に入りのものを眺めているとき。
目の前のことに無心で集中しているとき。

そうだった。
そういう瞬間。後になって『好きだな、幸せだな』と思う場面。
そのときは気づかないけど、後になってじんわり残るやつ。余韻。
それは他人の何かと秤にかけて、どっちが重いとか軽いとか測れないものばかり


入り込めない世界〜私とそれ〜

好きな人、好きな時間や空間、好きなものと対峙しているとき。幸せっぽい瞬間。
その瞬間に、他の何かと比較して、優れているから善いとか、劣っているから悪いとか、善悪や順番付けしてなんかいない。
没頭目の前の瞬間に浸っている(そして後から幸せの余韻を感じる、あぁあれが、所謂それなのか、と)。
比較対象が入り込む余地なんかない。

そのとき世界は、私と私のフェイバリットシングの2者だけのものになる

他者や他の代替物は私たちの世界には存在しない。そんなのただの邪念。

愛するもの、愛する瞬間について他者からの承認を得ようとは思うに至らない
他者が理解しないならしないでもいい、そんなの関係なく、私はそれらを私の好きな様に愛でるだけ。他は全部外野。
究極の自己満足の世界。

なるほど、I see.

 

てめえの『好き』を理解してるか問題

自己満足(≒没入≒幸せ)、ちゃんとその中にいるときに比べる対象なんて見えない、んだとして。

人と比べて辛い思いをするのって、自分の満足する状態(≒没入≒幸せ)を自分自身で把握できていないときなんじゃないかね

本来自分自身は欲していないけど、他人や社会の目を勝手に取り込んで、自分の目で見ずに選んでるとか。
世の中が『それが良い』と言う基準に自分を無理やり当てはめてるとか。
そりゃ、入り込めてないから、余計なもの見えちゃう、考えちゃうよね。

私が比べて苦しくなるもの、資産、知能、学歴、資格、所属企業、年収、出世etc...
生きていく上で、社会から刷り込まれた価値観。上下関係。
そりゃ、全部満ち満ちたりて持ってたら人生イージーでベター。

でも、おぎゃーと生まれたてのエケチェンが、それを本能として求めるか?と問われるとそうではないよね。
生まれたての、ピュアな私は、それよりももっと欲しいものがある。
後付けの価値観によらず、大人になってもその人が本質的に求めるもの、嗜好するもの、合うものってあると思う。

あぁ、私としたことが。
根源的に求めるものはそこにないのに、自分が欲しいものが分からず。
とりあえず世の中で是とされてる尺度で人と比べて消耗してた。
欲しけりゃもっと、本能的に身体が動いてるよ(私も人間。動物だったわ)。

皆そうだから、と言って興味ないものを手に入れようと必死で頑張って、
元々それに関心や適正がある人がスイスイと手中に収めていくのを見て、『どうして私はダメなんだ』なんて涙しても、時間の無駄よね。
焦り散らかしてる本人が、それに価値を見出せていないのに、それに向かって没頭できる訳ないね。


皆持っているから、と言って欲しいかどうか分からないものを必死に欲しがって、
手に入れてみたものの、『まだまだ何だか物足りない』と感じ、『あの人はこれに加えてあれも持ってる、私は足りない』を繰り返しても、時間の無駄よね。
駄々こねてる本人が、それを必要かどうか分かっていないのに、使いこなせっこないね。

あぁなんかぼんやり身体でわかってきた気がする。
人と比べられるものに幸せなんてない。』と。
幸せなとき、私の中には、他の雑念や比べる対象なんて存在しない
満ち足りているとき、私は、それを誰かに分からせたいとも思わない
人と比べられるもんなんかじゃなく、自分の中だけで完結できる永久機関

幸せは人と比べるもんじゃない、っていうより、
人と比べられるものに幸せはない、とはっきり言っても良いような気さえする。

それじゃあ私は何に没頭し、愛を注げるのだろうか?
そんなの多くの人は持たない夢物語と言う人もいるけど、もっとスモールスタートでいいんじゃないだろうか?(続く)