スピカのなんとか生きる日記

30代、男、ゲイ、毒親育ち、現在無職のなんとか生きる日記

貧困に直面、受け止めきれず機能停止

世の中、やっぱり金、金、金

高校3年生。受験。
人生の集大成と言わんばかりに、教師たちは生徒を囃し立てた。
運動部の子も引退して、勉強に集中するようになって、ピリピリしたムードが漂い始めた。

いよいよ大学受験が目の前に迫ってきた。
私の頭の中は、受験費用と大学入学費用の捻出をどうするのかということでもちきりだった
そのことが頭の中をぐるぐる駆け巡り、どうすればない金を、入学前に当面必要な金を作り出せるかを考えていた。

まず先立って差し迫って必要な金を用意するにはどうすればいい。
身近な人にまとまった金を出せる人間はいない。
学校は校則がかなり厳しくバイト禁止。それに当時は調べる術が分からなかったので定かではないが、生活保護受給中に収入があると収入認定されて、働いた分保護費が減ると私は認識していた。事前に貯金はできない。野菜ひとつ貰っても収入申告しなければならないのに、収入があるなどもってのほか、許されないだろうなと。

我が家の状態で何か積み立てているわけもなく、もちろん生活保護の制度上学資保険なども契約はできない。

周囲も金に縁遠い人ばかりで、工面の方法も逃げ道も何も知らなかった。親戚中、貧困だったから。

それはそうとして、何に金がかかるのか。
まず、センター試験国公立大学前期分の試験費用はやりくりすればどうにかなる。
私立は試験受けるのも無理、自明。考えたこともない。
次は、受験地まで行く交通費と宿泊費。
その後、入学金と新しく借りる家の家賃、敷金、礼金
教科書代、国民健康保険料や数ヶ月分の生活費。湯水のように金が飛ぶと容易に考えつく。
奨学金を借りても、足りそうにない。何のために高校通ったんだろ。

そもそも、生活保護で育った子どもは、大学に進学することを想定されていない(その分に余計に給付があるわけではない、血税だしと)。
私の時代は『贅沢で歓迎されない』ことだった。

はぁ、じゃあ大学に行けると決まったらどうすりゃいいんだ
18歳になったら生活保護から外れて世帯分離か一人暮らし

それ即ち、すぐに自分の食い扶持を稼がなければならないというルールだった。当然、親に支給される金額も減る。

親と暮らしながら地元の大学に行くとしたら、世帯分離を申請する。ただ、その点について正しい情報にアクセスする術を知らず、自分で働いた分の給料が多かった場合、生活保護を切られるのではないかと考えていた。
打切りのリスクや将来を考えると、一人暮らしの方が良さそう。
だが、金がない

 

血税泥棒は早く働け

私の生まれ育った地域は、不景気で職がない。
大体、大卒でも職がない。
高卒でつける職はほぼない(工業系の高校ならあるかもしれないが、普通科で働き始める子は契約社員、パート、アルバイトだった)。
コネもツテもない。私の通う高校で就職斡旋すると言う話も耳にしたことがない。

だが、生活保護費は確実に減る。

実家に暮らしながら働き始めると、『親を扶養しろ』と市役所から何度も強く言われる。
生活保護を打ち切られたら、親の面倒を見る余裕はない。
生きていけない。

成績が悪いのは概ね自業自得だが、生活保護の子として育ったばっかりに浪人はほぼ無理に等しかった。
自分で十分な生活費を稼ぎながら、『予備校に通いながら勉強漬け』の子を打ち負かさなければならない

そもそも『持っていない』側の人間が上を目指したいなら、人より何十倍も努力をしなければならないという現実に直面した
辛かった。

自分の人生辛いことばかりだと思っていたが、まだ我慢が、努力が足りないのだと言われている気分だった
若しくは、『分不相応なことを望むな、お前には運も才能もない』とハッキリと言われたような気分

 

泣きっ面に塩を塗りつけに来る蜂

春先から毎日そんなことを考え、答えのない日々を送っていた。
最後の追い込みと気合を入れているクラスメイトが頑張っている夏休み、私の左耳が突然聞こえなくなった
耳が詰まった感じがして、低い音が聞こえない。
焦った。理由もわからず、ただ焦った。

数日すれば治るかと思って放置してみた。治らない。
これは、ダメだと思い近くの耳鼻科に行った。どうやら中耳炎とか、耳の気圧の問題ではないらしい。
大きな病院の紹介状をもらい、その足で病院へ向かった。

聴音検査をして問診。
突発性難聴ですね、早めに治療を始めないと聴力が戻らない可能性があります』医者は淡々と言う

『何それ、ヤバいやつ?』
今受験控えてるし、金なくて悩んでるんだけど、今病気しなきゃいけないの?

人生の不公平さを睨め付けながら、悔しさから唇を噛んでみた
とは言うものの、冷静、と言うか諦めるのが得意な私は、この夏をさっさと諦めて、人生に足手纏いな病気を治すことにした。治るのかどうかよく分からないが。

それから、毎日点滴に病院へ通うこととなった。

夏の夏期講習は行けなかった。教師に事情を説明するも、特に関心がなさそうだった。
医者は『ストレスが原因な場合が多いです。ストレスを溜めないように。』と言った。

これは、30を超えた今でもよく理解ができないのだが、『ストレスを溜めない』方法がわからないストレスを溜めないようにどうすれば良いか考えている時点で、ストレスが溜まっていると言うのに。簡単にいってくれるな、先生、あんただったらどうすんだよ。

ストレスの原因は明白だった。貧困に真正面から向き合ってしまったから
大学に行くための費用のことでストレスがかかって、脳味噌がパンクしてしまったのだ。

『健康』と『大卒という学歴』を天秤にかけた時に、『健康』を選ぶより他なかった。耳がおかしい状況が常態化するのは避けたかった。数少ない楽しみである音楽を聴くことすらできなくなる。

ただ、それは、大学に行かねば貧困の連鎖から逃れることができないと盲信していた私には酷な選択でもあった
現役で大学に入れないと、大学に行けるチャンスが狭まってしまう。人生自転車操業なので、一度止まるとすぐに身体ごと横転。
簡単に浪人して、来年もっと素敵な大学に入ることなどできないのだ。
自分で自分を養う金を作り、それで人に勝てるまで勉強をする、耳が治っているか治っていないかに関係なく。

そうこう考えても、どうにもならないので勉強と金策について諦め、治療に集中することにした。
待ち受けているかもしれないヒドイ未来が、あまりにも私を虐めてくるので、私は治療中を言い訳に逃げた。
とりあえず耳を治すには、嫌なことには蓋をして、ゆっくり休むしか方法がなかった。

一週間程度点滴を打ったが、治る気配がなかった。
医者曰く『点滴で治らないと別の病気の可能性がある。メニエール病』とのことだった。

その日からそれ用の薬を飲むことになった。

数日毎に病院へ行き、聴力検査をする日々が続いた。
メニエール病用の飲み薬『イソバイド』は、喉が焼けるほど甘く、後味として酸っぱ苦いシロップで、何度飲んでも全くなれず、不快な気分になる。
ただ、それを飲む前後は、不味さが勝って本来のストレスを忘れさせてくれた。

イヤホン音楽に没頭するのが好きだった私は、楽しみが奪われて、それもストレスになっていた。宇多田ヒカルの『ULTRA BLUE』を繰り返し繰り返し聴きたかった。このアルバムは心情的にも、タイトル的にも私に寄り添ってくれた。私はこの時、『ウルトラブルー(超鬱)』だったから。

新学期が始まる頃には、聴力もほとんど回復していた。
だが、全く心は虚無で、何にもやる気が湧いてこなかった。
自分自身の事をこれほどまでに『どうでもいいや』と思ったこともなかった。情熱はなかった。

学校には適当に行った。
志望校を出せ、志望校を選べと学校がうるさいので、苦手な科目の二次試験がない近隣の大学を選んだ。
身近な親戚内には、大学に行ったことがある者がいなかったので、大学は未知の、いささかハードルの高いものであった。

 

保護者サポートプランなしのコースで

無為に過ごしていると、センター試験当日。
キットカットを食べたからどうにかなるかな、と思いながら本番。
不得意な科目では鉛筆を転がしてみた。

センター試験の帰り道、他の子とはベースの環境が違うな、としんみりしたのを覚えている。
皆は、試験後には親が車で迎えに来ている。心配そうな顔をして、子を校門で待っている。
そういえば、小中学校の卒業式とかもこんな気分になったっけ。
親、来たことなかったもんな。

案の定、二次試験もそんな感じだった。
同じ大学を受けるクラスメイトは親と一緒に現地に来ていた。私は自分で予約した格安ビジネスホテルに、一人で泊まった。

あぁ、受験って、自分自身が勉強で頑張るってだけじゃなく、親のサポートとか環境もあるんだ、今まで気づかなかった
そんな顔をよそ目に『寒いな、案の定全然できなかった。これからどうなるんだろう。』と思いながら、風吹く通学路を自転車で飛ばした。

 

志望校選択

センター試験の自己採点を終えた。下手したら平均ないなこれ。
行けるかどうかは別にして、とりあえず出願する大学を決めた。まあ行けるんじゃない?というレベルの国立。

私は家を出たかった。母や親戚から離れて暮らしたかった。
母は前より穏やかになっていたが、近くにいると新しい人生が始められない気がしていたし、ここで外に出ないと一生この場所から逃げられない気がしていた。

それに、田舎で何もない街にほとほと嫌けがさしていた。刺激が何もない。

ただ、あまりにセンター試験の結果が悪かったので、田舎のエリアを出ることはできそうになかった。
金銭面でも都会へ行くのは到底無理な話だった。
都市部へ行くには、私立に行くか、国公立に行くにはそれ相応に勉強できなければならなかった。生活費も田舎とは比べ物にならないほど高い。残念。

冗談で『浪人しよっかな』と親戚らに言ってみたが、
『浪人したら東大や京大に行けるようになるの?今の時点で勉強してないし、できてもないんだから浪人しても、今志願してるよりレベルの高い大学に行くのは難しいと思うよ』と返されて、ぐぅの根も出なかった。ぐぅ正論。

奨学金の前借り制度があるので、入学金は払えそうと知った。朗報だった。奨学金の借りる額も、最初は多めに借りておくことにした。勉学に励んでこなかったせいで、有利子しか借りられなかった。とりあえず、将来の自分に借金をして、今をなんとか生きることにした。

やれやれ。別の高校行っときゃよかったわ、と他人事のように自分の高校生活を振り返った。覆水盆に返らず、返れよ。

 

合格、一旦何とかなりそう

大学には合格していた。
インターネットで結果を見たのか、合格通知をもらって知ったのか覚えていない。
入学が現実に近づくと、大学に寮があるのでそこに住むための申込み、奨学金関係の手続き、それに授業料免除の手続き等々、金のことを詰めていかなければならなかった。
親戚が書類面ではサポートをしてくれた。母は一才役に立たなかった。

高校卒業から大学入学の間までに少しでも金を稼ごうと、アルバイトを探したが、すぐすぐに雇ってくれるアルバイトが見つからなかった。採用はされたが、中長期での労働を希望されたり、働き始めるまでに時間がかかるものばかりだった。

日雇いや取っぱらいのアルバイトを見つけるには情弱だった。

周りに良い大人がいない、しかも友達が少ないと情報で負けるなと感じた。

生活費を切り詰めて、密かに残しておいた生活保護費を大学入学して初めてのバイト代と奨学金が入るまでの生活費にするしかないと心に決めた。
ギリギリ生活できるかどうか、まずは最初のバイト代が入るまで・・・明るいスタートなはずなのに頭の中は、金、金、金で胃が少しキリキリした。

いよいよ大学へ向けて出発する日。
一人高速バスに乗った。出発前に、いつも世話をしてくれた親戚から封筒をもらった。そこには、手紙と一緒に数万円包まれていた。
簡単には受け取れないお金だった。その人も収入はほとんどなく、なけなしのお金を包んでくれていると知っていたから。その人が日々薄給を嘆き、貧しい状況に苦しんでいるのを、ずっと見てきていたから。私のためにそんなにしてくれなくても、、、

それでも、『受け取って』と封筒を渡され、私は受け取ることにした。行きのバスで、『この恩は必ず出世払いする』と誓い、見慣れた街をぼんやりと眺めた。(続く)