スピカのなんとか生きる日記

30代、男、ゲイ、毒親育ち、現在無職のなんとか生きる日記

希望に満ち満ちた高校生活

適応失敗

高校1年生

高校生活、中学時代はあれほど調子に乗っていたのが嘘のような時期。
結論から言って、高校生活丸々3年間全くうまくいかなかった

よく通って、卒業できたな、と今なら褒めてあげたい。
小中学校は、見知った人が多い環境で、『おかま』な私をみんな見慣れてそこそこに受け入れていたが、学区問わず、あらゆる地域から集まる高校では、私がとても異質だったらしい。

高校のクラスは、男女比で言うと3:1くらい男子の割合が多いクラス。中学時代と違って、みんな真面目で、あまり人と喋ったり、はしゃいだりするのが得意な人たちではなかった。

グループで固まると言ったら、同じ部活か同じ中学校同士でグループ。
朝、学校に来ても、皆黙って宿題をやっているような環境。
昨日何のテレビを見たとか、雑誌の話とか、そう言うのは皆無だった。

後から知ったが、男女で話をすると、付き合ってるとかどうとか噂になって面倒だから、教室の中では話さないというのが暗黙のルールのようだった。仲がいい男女は、裏でメール。

なんだか馴染めない空間だな、と思いながら始まった高校生活。

するとすぐに、ある男子生徒から悪口を言われたり、すれ違いざまにぶつかられるようになった。集団での暴力や無視等はなく、その個人が私に対して敵意を剥き出しにしてきた。

先に私が何をしたのか記憶にないが、何かしたならその理由を教えて欲しかったし、それを理由に人に嫌がらせしていい理由にはならないと思っていた
それに、彼に嫌われる云々の前に、彼とろくに話したこともなかった。
『なんか気持ち悪くて、気に入らない』とかが理由で、いじめの対象にしやすかったのだろう。
私はその対象にされるのが、ずっと鬱陶しかった。

私をいじめる彼は、中学生時代人から嫌われていて、元々はいじめられっこだったらしい。彼と同じ中学校の子に聞いた。所謂高校デビューだと。
ルックスはカッコいいと言われモテていた。勉強はあまりできないみたいだった。


いじめ、加害者はやり得

また、私は別の生徒からもいじめを受けた。
その子も同じクラスの男子生徒で、入学当初は、出席番号も近かったのでよく話していた。
だが、席替えなどもあり、話もあまり合わなかったので話をしなくなっていった。ただ、私は彼の悪口を言ったりはしていなかった。

教室に私を名指して、悪口を書いた紙が貼られていた

それが教師に見つかり問題となった。
教師に見つかる前に、私も気がついたが、自分で剥がすのも癪でそのまま貼っていた。パッと教室を見回したとき、犯人が誰かはすぐにわかった。
そしたら、教師に見つかり、ホームルームは犯人が見つかるまで延長されることとなった。夜遅くまで全員教室に残ることとなった。

私の件で、関係ない人たちクラスメイト達が帰れずにいるのは、居たたまれなかった。同時に、被害者である私が、なぜこんな気持ちにならなければならないのだろうと、疑問に思った

被害者が、加害者を探す段になっても、まだ辛い思いをしなければならない。おかしいと。

最終的に、犯人は見つかり、先生に注意を受けた。
彼が叱られている間、私は別室で待たされた。
お灸を据える時間が終わると、彼と私は引き合わされ、彼は教師に促され、私に謝罪した。特に心からの謝罪には見えなかった。
教師は、この件を一旦終わりにするための形式的な儀式として、私に彼との握手を求めた
私は、断った。この場は丸く納めてやるのが良いのだと分かっていたが、犯人の態度も、教師の握手でシャンシャンな軽率さにも納得がいかず、意思表示をした。これ以上責めるつもりはないが、許さないと。

後日、別の教師から、加害者である彼も、母が亡くなり父子家庭で辛いところがあると言う身の上話を聞いた
それは、私には全然関係ない

家に帰るのが遅くなった私は、いじめを受けた件を親と親戚に報告した。自分で自分がいじめられた話をするという辱めを受けるとは思わなかった。親戚達から『可哀想に』と思われるのが嫌だったし、そう思わせるのも悲しかった。

学校から彼の保護者に、この件に関して連絡を入れてはいないのが納得いかなかった。加害者は、黙っておけばそのまま自分の罪を家族に隠し通せるのだ。家族を心配させなくて済むのだ。

そこは、学校が加害者の親に、その子どもの加害を伝えるべきだ。親の庇護の下にある未成年の子どもなのだから、親も知る責任がある。子ども同士の喧嘩のように、当人同士で処理しようとする、何もなかったかのように握手させて終わる、事なかれ主義のような学校のスタンスには反吐が出た。

とは言え、こちらの親も学校相手に強く出れるほどしっかりしていないし、学校に訴え出てもらうわけにもいかないことは理解していたので、私はどうしようもない怒りを諦めて、そっと蓋をすることにした

家庭環境が落ち着き、以前よりは『マシ』になり始めた頃、
学校生活に暗雲が立ち込めて、私は人生の上手くいかなさを目の前に途方に暮れた。

人間関係のうまくいかなさ、いじめ、が続くにつれて、勉強も身が入らなくなった。
言い訳といえば、それまでだが、少しずつ、何もかもどうでもよくなり始めていた。
そもそも、学校に行きたくなくなっていた。

犯人は私に危害を加えなくなったが、もう一人の敵意を向いてくる彼は依然変わらなかった。
私は、一回学校を休んでしまうと、もう何もかも面倒くさくなって、学校に行かなくなることを心のどこかで理解していた
生活保護で高校留年、酷いと中退、と言うのは何がなんでも避けなければならなかった

貧乏から抜け出したい、生活を変えたい。そのためには、この貧困の再生産を、負の連鎖をどうにか断ち切らなければならないから。中学時代からずっとそう考えてきた。

だから、嫌々学校には通った。成績は底知らずの右肩下がりで、どうしようもなかった。最初は勉強は継続する努力と、気持ちの問題で解決できるものと思ってきたが、そのうち私にはそもそもそんな才能も能力もないのだと思うようになっていった。
ますます学校が嫌いになった。


かすがい、心の拠りどころ

家庭では、人生で初めての出来事が起こった。
子ネコの世話を始めたのだ。家族が増えた。
最初は、家の庭に雄ネコが現れ、次第にメス猫も来るようになった。親戚や祖母も来て、たまに餌をやっていた。
そうしている内にいつの間にか子どもを産んでいた。

母は動物が好きではなく、子ネコを飼うことには猛反対で、祖母達によくくってかかってネコの世話を家の庭でするな、と金切り声をあげていた。呆けて物忘れが激しくなっていたが、自分の主張を通したいと怒り散らかす時は、以前の母と変わりがなかった。

冬のある日、複数いた子ネコの内、1匹の前足が折れてしまっていることを、親戚が発見した。母の食料を買うついでに、ネコの世話をしに、毎日家に寄ってくれていたのだ。
あまりに可哀想で、このままなら冬を越せずに死んでしまう、と言うことで家の中にその子ネコを招き入れることにした。

母は気が狂ったように反対したが、以前ほど怒りも長く持たず体力も衰えてきたようで、最終的には一時的に家に入れることを認めた。ただ、一切ネコの世話はしない、『大家に動物を飼うなと言われている、生活保護でネコを飼うのはおかしい』と言い残した。近所の人も犬を飼っていて、汚いボロ家なので大家も五月蝿いことは言わないし、生活保護で酒を飲むのはいいのかを考えた発言ではなかった。

きょうだいの子ネコ2匹をなんとか捕まえて家に入れると、風邪を引いて目やにがべったりな状況だった。親戚が献身的にミルクを飲ませ、病院に連れて行き、なんとか一命を取り留めた。折れた前足を治すことは難しかった。

もう一人のネコは家ネコになりたがらず、家に入れておくと暴れ回るので、家から出すことにした。足の折れた子は力もなく、暴れることもなかったので、なし崩しで家ネコにすることにした。
しばらくすると子ネコはかすがいになり、母と私の関係も穏やかなものになっていった(母はあまり世話をしなかったが、可愛がり始めていた)。


無の日々

学校では、何も面白くないまま過ごす日々が続いた。
会話するクラスメイトはいたが、誰とも話が合わなかった。
担任の教師に面談で、人と合わないし、いじめられた件がずっと辛いとぼやいてみた

が、『あなたは周りより、大人だから話は合わないかもしれないね』と言われて流されて終わった。

授業で関わる人以外の知り合いができないままだった。
趣味もなく、部活はやってなかった。世界が広がらなかった。

家に帰って、自分のご飯の買い出しや家事をしなければならなかったし、そもそもお金がなかった。贅沢は一切していなくても、入った分、丁度出ていく。何も貯まらない。
何をやるにもお金がかかると思っていたから、何にいくらかかるかを考えることもハナからやめていた。

『本当にやりたいなら、お金は自分で貯めて』、『何にいくらかかるかを調べて、諦めず』等と言う声があるのも分かるが、何からどう始めていいか、基本の考え方が最初から備わっていなかった。

お金がかかることは、大抵最初から諦めなければ、あとで自分が辛い思いをすることを十分に学んでいた。

そう言えば、幼少期、母に色々せがんだときによく言われていた。
『下を見て生きろ』と。(続き)