スピカのなんとか生きる日記

30代、男、ゲイ、毒親育ち、現在無職のなんとか生きる日記

人を雇うにも、人が辞めるにも

ワレガワレガな人が怖い

『みんなでやろう』を標榜し、上司部下がない会社に、近隣のアジア圏出身の方が役員待遇で入社してきた。取締役のひとりと同じ出身だそう。

大まかな日本語は理解できるが、込み入った話は難しい。
そして、彼は声が大きいが具体的なことはよく分かっていない、『勢い』の人だった。
自身の過去の実績や勤めてきた企業でのやり方を強く主張し、『ワレがワレが』と、自己主張が強いきらいが見えた。
因みに、その役員を誘い入れた外国籍の経営陣も日本語が覚束なく、勢いだけで熱くなる人だった。
言葉の壁。

この新しい役員は、この会社の社風からは少し『異分子』だった。
派手な自己主張はせず、理解し合おうと努める社員が多い風土だったが、その中で彼は主張や圧が強かった。

初見で『正直ヤバそうだな』と思った。直感。
でも、仕事を推し進める上では、グローバルに活躍するには、この『ワレが』感が必要なのかもしれない、きっとそうだ!とひとり自分を納得させた。

嫌な直感は当たるもの。
彼は雄弁に語る。今度の新規事業を『キラキラ、ワクワク、ドキドキ』といった言葉で修飾し、熱く。
私が仕事で調整しなければならないのは、『込み入った部分』。
そういった『ざっくりDREAM』を述べられても、具体的な仕事は進まない。

彼は、主張は強い反面、込み入った話になると『ニホンゴムジュカチイネ』と逃げた。
それが続く度、私は困惑、疲弊。
おまけに、こちらからの確認事項は放ったらかしだった。
にも関わらず、業務が遅れているのは私のせいだと役員会議で報告されていた。
平気で人のせいにできるのね、、、怖い。やられる。

私の部署には、上司やリーダーもおらず、入社したばかりの私は、誰に助けを求めていいかもわからず、圧の強い新役員との仕事でストレスを溜め続けた。

脆く、堪え性のないダメな私は、その彼とのプロジェクトにおいて最低限の役割を果たした後、退職した。

思うに、新卒、中途関係なく、新しく入社した人には既存社員のサポートが必要不可欠。ワレガワレガで癖の強い人との折衝など特に
会社のことも分からず、キャッチアップが必死なときに更に無駄にストレスを与えるのは会社として中長期的にみて損失だろう。
また採用活動をして時間を使い、エージェントに無駄金を払うこととなるのに。

因みに、そのワレガ系役員も、私が退職して1年経たないうちに退職している。
複数回転職してみて分かったが、新規事業や経営企画などで鳴り物入りで入社してくる『発言に勢いがあり、キラキラした言葉を巧みに使い、他社での実績があるように見える人』は、口ばかりが達者で、実績を上げることなく早々に退職する。
高待遇渡り鳥、羨ましい限りだ。手八丁口八丁。

 

会社にヘイトを溜めた前任者

私はこの会社に前任者のリプレイスとして入社した。
どうも私の前任者は会社にヘイトを溜めて、怒って退職したらしかった。
彼は仕事に関わるデータを全て消して去った。
立つ鳥跡を。
引き継ぎもなくひとりリモートする私。虚無。

漏れ聞く話によると、前任者はデフォルトの性格として偏屈で頑固。
そして経営側によく意見をしていたらしい。
意見するも通らず、ヘイトを溜めた。そしてデータをデリート。
私も何度も転職しているが、さすがにそんなことはしない。

引き継ぎがないので、私は、過去の業務をサルベージするというマイナス地点から業務をスタートさせるより他なかった。
何も情報がなく、同じ部署の人、上司等もいなかった。
私はどんどん追い詰められ孤立していった。

因みに、私の後任も短期で離職している
会社として受け入れる体制が整っていないのに、人員確保だけ急いだからだろう。
人事主体の採用は、中途採用には向いていない。
雰囲気重視でいいことだけを言う、一緒に働くわけでもない人事に何がわかると言うのか。

人を雇うにも、人が辞めるにも理由があるし、面接なんかじゃその本当の理由はわかんねぇ。
会社も求職者も本当のことなんて言わないんだから。
ここも優しい会社だったが、業務をひとりに任せっきりだし、特定の部署だけ人員が余っているのに人員増を繰り返してたな。
そりゃヘイトを溜めるよね。理解はできる。

 

違和感を合理化してもダメ

入社前に感じた違和感は、入社後に『やっぱりな』と思うことが多い

この会社に対しても、いい会社だが『直感的にはなんか違う』と感じていた。
結果、前任者からは何の引き継ぎもなく、圧の強い外国人と伝わらないコミュニケーションで浪費させられ、『みんなでやろう』を標榜するも私には仕事の話ができる仲間がひとりもいなかった。

直感を信じず、なんとか入社先を合理化し、いい理由を自分に信じ込ませようとしても、なかなか直感は最初に見抜いている。

ただ、全部直感に従っていては、就職にありつけない。
誰もが認めるほど優秀な人ならいざ知らず、学歴もスキルも、コミュニケーション能力も突出したところのない私は、選べるほどの人材ではない。

掃いて捨てるほどいる、その他大勢。
でも、直感も大切にしないと、失敗に失敗を重ねることになる、トホホ。

人を募集している会社(増員も欠員も新規募集も)、
人が辞めると決めた会社(本人都合も、会社都合も)、
それぞれ理由があって、その理由は求職者が調べたところで、面接受けたところで、会社にも求職者にも全然わからないもの。
何回も何回もくじ引きをできるわけじゃないから、これも多分運。

 

フーテンNOW

そうして私は、次の会社を決めずにプーになった
あれほど必死に、薄給から、ストレスを溜め続けながら貯めた貯金を切り崩しながら生きる。
なんかいい仕事見つかるかもしれないと、淡い夢を見ながら。
就活始めたら、空白期間の長さから、社会から弾き飛ばされ、今までの転職以上に心がへし折られるだろうと安易に想像できると知っていながら。

失えば失うほど、どこか本質的に、根源的に必要なものが見えてきて、より強くなれるのではないかと儚い期待を胸に。
なんとかなるさ、を人生で初めて信じてみようと思う(l果てして今なのか?)。(続く)

転職人生〜うまく飛べない渡り鳥〜

はじめての転職、合う上司の登場

デジタル化が進まず加齢臭のする、声がでかけりゃいい職場からの反動。
私は次の会社にベンチャーを選んだ。


面接時から、上司に当たる面接官との会話が弾んだ。
仕事に対する考え方やスタンスを誇張することなく素直に伝えられた。
先輩社員となる人も女性で話しやすい。
入社後もギャップは特になく、始めて評価されていたと感じ、仕事が楽しかった

上司の言うこともよく理解できるし、他の社員からは『怖い』と恐れられていた先輩社員とも上手くやれた
周りから、あの人とうまくやれている人は始めたみた、と言われるくらい。

ここで学んだのは、仕事はまずは『できる』ベースで考えて取り組むべし、ということ。
今までそんなことを言ってくれる人は周りにはいなかった。まず無理や難しいと言うのではなく、『できる』を前提として。
当たり前なのかもしれなかったが、私には新鮮で、『どうやったらできるか』を考える訓練になった。後々の仕事の役にも立った。

合う上司の下で働くと、やりたいこと、やるべきこともスムーズに行動に移せる

いちいち『なんで?なんでそうなったの?』と言う疑問や、それが解消されない不快さを味わわずに済む。

そこでスピードを重視して、早めに動けば上司からの評価も上がり、認められているような気がして仕事が好きになる。
評価されることを軸としている分、外的要因を必要とするが、私にとっては大きな一歩だった。

もう一つ大事なポイントとして、その上司は、私に小さな成功体験を重ねるサポートをしてくれた
ステップを重ねるうちに、自分で『こうしてみたい、ああしてみたい』と意見を持てるようになった。

その後その会社は、大企業に株式を譲渡し、子会社となった

バイアウトした後のPMI、親会社の風土を強制的に入れ込まれることによって退職する人たち。やる気のなくなる経営陣
株式を手放した後、大金が手に入り骨抜きになる創業者。
買った事業分野のノウハウがないが、自社の文化を強く吹き込もうとする新しい所有者、大企業。
会社の所有者が変わることなんと考えてもいなかった。

会社という個人の集合体で作る文化や仕組みが、外からきたものによって強制的に作り替えられていく様は侵略の様にも思えたし、これが今どきのベンチャーなんだ、これが今どきの普通なのかな、と思いワクワクした。

 

それからのキャリア

それから数回転職を繰り返した
上場したベンチャー企業で働いたこともある。
生長の勢いのある会社では、次々に新しい業務が待ち構えていた。
1個終わりかけるとまた次の1個が降りかかる。高速テトリス
だが、それも成長とポジティブに捉えていた。

自分の経験が増える、と。

知識のないことも、強制的に、場当たり的に経験することができた
普通なら自分で選択を躊躇することも、目の前にやらねばならないこととして突如現れる。
やれることがどんどん増えるのは、自分の価値が高まること、そう思って取り組んだ。

ここでも、上司とは相性がいい方だった。
仕事上での付き合いしかしないし、飲みニケーションなんかも一切しなかったが、上司の拘るポイントが自分と似ていたり、そこで勉強になることが多かったから。

その上司は、忙しすぎてピリピリする空気の中でも、ユーモアを忘れないところがあった
『辛い時ほど面白く』のスタンスは余裕と気遣いの大切さ
トラブルもジョークを言って、少しバカにしながら笑って取り組む。
近視眼的になって、ピリつきがちな状況。
メタに捉えて冷静になるために、より素早く仕事を進めるために、笑いは必要。

ややブラックなジョークなセンスが合った。
そこそこ経験が積めたな、と思った後、私はより仕事を深化させたいと思い別の企業へ。

今思うと、このポジティブさからくる驕りが、私の仕事人生を現に今狂わせている元凶で、この決断をやや後悔している

驕りは良くないぜ。

 

勝者(リスクを取る者)が得るもの〜IT長者を横目に〜

成功しているタイプのベンチャーで働いてみて感じたこと:ベンチャー企業創業者利益、上場益は凄まじいぜ、マジ。

起業に成功すれば、創業者(大株主)は、数百億の資産が手に入るらしい。
たまたま偶然、そういった運も実力も兼ね備えた会社に入社できたので、間近で大きな金が動くのを見ることができた。

資産数百億の人と一緒に仕事をしている不思議。
田舎の貧乏暮らしからは想像もできない生活。
そんな人と働きながらも、私の給料は世間の中央値とほぼ同じだった。

資本家と労働者の差たるや、、、と思った。
都心の豪邸、ブラックカード、著名人との繋がり、、、キラキラ資本家。

ただ、日常を見ると、そんな彼らも同じ人間。
流行りのドラマを見たり、病気してみたり、1,000円ランチを一人食べたり。

世界はますます奇妙なものに思えた。
世の中、彼ら資産家のために廻ってるな、と思いつつも、彼らも私と変わらないタダの人間という動物という不思議。
私と彼らを違えているものはなんなのかしら、、、と。


新職場〜船頭多くして船山に登る〜

次の職場は上場を夢見るベンチャー
会社は、上司や部下もなく、みんな自由。フルリモート。
『みんなでやろう』を意識した新しい雰囲気。
そしてこの会社は、みんなで仲良く、楽しく、共感しながら働くメンバーを求めていた。

素敵な思想やん

上司や部下がおらず自由ということは、各自が好きなことをやって、やりたくないこと、やらなければならないことが、ポツンと残り続けたままになるということ
入社してすぐにボロが見えてきた。

『みんなでやろう』は、素敵な反面、危険なスローガン
気づく人がやって、やらない人は一生やらない。気づく人からの不平不満が噴火寸前。
それに自分の言動に対しての責任をぼやかす温床となる。誰が担当か不明瞭。
入社して間もなく、経営陣も課題として捉え始めた。

全員が自由なリーダーで責任も不明瞭だと、バラバラな方向に船が進もうとする。
経営施策も営業方針も設備投資も人員計画も、各人のリーダーシップに依っていたため、会社として何をすべき/したいのかが統一されていなかった。
数字的にも会社の成長も鈍化し続けていた。
IPOどころではない、という様子。

程なくして、この会社にもリーダーシップが必要ということになった。
上司も部下もない会社が、リーダーを置く。上下を作る。
リーダーの選出は当然経営陣。
長年在籍していた社員からは反発が出た。経営陣は仲の良さ、距離の近さで決めた。

優秀な人ばかりの会社だったが、『会社』というよりは大学の『ラボ』。
元々経営陣と同じ大学や会社の方をリファラルで集めた組織だったので、さもありなん、である。
私は無色透明になり、なるべくその文化に同化しよう自分なりに頑張ろうとした。

そんな『ラボ』にも同じ大学や会社という土壌ではなく、役員と同じ国出身という理由で採用された『圧の強い異分子』が偉い手として入社することになる。
文化への同化、というより、個の主張。

入社早々の私は『圧の強い異分子』と同じプロジェクトに入り、疲弊。
会社に恨みを持つ前任者が私に引き継ぎを一才せず、会社側もそれをフォローしない状況に陥り、またもや私はダークサイドへ堕ちることになるとは。(続く)

仕事ってどんなものかしら?

上司の背中:威圧感や不機嫌さで人を支配する

ワクワク新卒。労働とはどんなものかな。
最初の配属は本社ではなく、所謂現場。OJTで学んでねスタイル。
スーツは着ない。バイトみたいなシフト制。

簡単だが量が多い事務作業。
朝から晩までの電話応対。
人力でなんでもやりすぎだと感じるほどデジタル化は進んでいなかった。
毎日12時間以上働いた。

思っていた東京ライフとは全然違った。ショックというより、日々ちゃんと仕事を覚えて、ちゃんとこなせるようになるように必死だった。

そのときは、目の前の作業をきちんとこなすことが、一番求められていること、仕事をして認められるための唯一の道と思っていた。

最初の上司は、正当な理由もなく怖い人だった
喧嘩っぱやい元ヤン。
よく人を殴ったり、蹴ったりした話を自慢げにしていた
私の前任の若手も殴ったらしい。なんやそれ。

職場で一番偉いのが彼で、誰も彼に逆らえなかった。職場の他の社員達からは怖がられ、そしてそれ以上に嫌われていた。
上司は彼らを従わせるために、いつも怒鳴ったり、気に食わない社員に手を上げることもあるらしかった。醜聞。

配属先の空気は毎日とても重苦しかった
上司の機嫌はどこで変わるかわからなかった。怒るポイントも笑うポイントも極めて謎だった。
訳もわからず、始終不機嫌な日も多かった

職場では、一日中息を殺した。足音を立てるのも憚られるくらいの空気に耐えなければならなかった。

私は、怖さや怒られたくなさ、それに面倒臭さから、生真面目に言うことを聞いて働いていた。
が、それは上司受けする面白みのある性格ではなかったようだ。

男社会的なものとの親和性が低かった
『見どころ』がなかったので、上司は私の接し方に困っているように見えた。
少し腫れ物。まぁ、怒鳴り散らかされるよりいい。

彼のタイプとしては、部下が何か間違えればガツンと怒鳴って、自分の立場を誇示し主従関係を作って支配したい、と思っていたと推測できる。
自分がイラついた時は発散できて、それでも自分に懐く子分(本当は渋々従っているだけだろうが)。

だが、怒られたくない私はミスがないようにミスがないようにと細かく動き、生真面目で愛嬌がなかった。

そんな私も一度だけ、いきなり怒鳴られたことがある
上司に何か聞かれて、何のことを言っているかわからず、聞き返したら、いきなり。

『え?』でしかなかった。
仕事ってこんなにいきなり感情をむき出しにするんだ、仕事ってこんなイライラしてて、重苦しいものなんだと誤った認識が芽生えた。

仕事に慣れてくると、いろいろな所から情報が入るようになった。その上司はパワハラ気質で過去にも問題を起こしている、が、現在営業成績が良いため会社としては評価されている、とのことだった。

会社は道徳で動いている訳ではないと知った
その頃には、『誤った仕事たるや』、がインストールされた私が出来上がっていた。

仕事とは、目の前の作業に忙殺され、一日一日単発で終わっていくもの。予め決められたやり方で正しく処理すること。
後、上司の顔色は常に伺い、上司をキレさせないように丁重に扱う、上司に意見をしたり、上司に気軽に話しかけてはいけないということ。

今になって、最初の職場の、最初の上司は、仕事を始めた若者に多大な影響を与えると知る。後々、アンインストールするのは容易くはない
その後、別の配属先に移ることになった。ラッキー。

配属先変更の理由は、別の配属先の同期が上司とトラブルを起こしたからだった。
あぁ、それなら私もトラブル抱えてるのに、会社の目は節穴だなと思った。

 

パワーも、セクシャルも

前の職場には、私の代わりに女の子が配属された。
その子には、元ヤン上司は優しく接していると聞いた
職場の先輩曰く、上司の私と彼女への対応の違いは可哀想なほど違うらしい。

仕事も、専門的なことを個別に時間を使って教えているとのことだった。
実際、彼女は私よりずっと良い評価をつけてもらっていた。

あんなに硬派なフリして、暴力や威圧感で人を支配してたのに、綺麗な女は贔屓もするし、優しく教えるんだ。ダサ。

仕事の矜持を語られたこともあったし、恐怖で言うことを聞かない者を支配するのも、マネジメントの方法の一つとしてはあるのかな、なんて思っていたが、彼の浅さに失望してしまった。

その後、上司はその女の子に交際を迫っていると知った。
その上司に対して、圧倒的に嫌悪感を感じた。パワハラとセクハラを両方見せられた。

社会人の洗礼。


仕事も結局、ウマが合うかどうかなのか

月日が経ち、また異動した。
同日に他の社員と2名で配属。
新しい上司は、部下達から明確にヘイトを集めていた。
仕事って、こんなに部下が結託して上司を総スカンしても良いもんなんだ、と思うくらいに明確に。
部下達は、新しく配属された私達も敵視していた。

そんな中、同日配属の子は上司と仲が良くなっていった。
上司としては、敵ばかりの中、自分の味方が現れたのが嬉しかったのだろう。日に日に仲良くなる彼ら。

私はと言えば、目の前にある作業をただただ正確に高速に処理できるように努力していた。特に手を止めて、上司と喋ることはしていなかった。

案の定、仲良くなった同日配属の子の方が評価が高かった。この子の仕事のリカバリーをしていたのは私だった。

あぁ、なんて私は人間関係を作るのが下手くそなんだろう、上司に好かれなければ本当に評価されない
どうすれば、上司から好かれるんだろう。仕事で評価されるってなんだ、答えがわからず、目の前が真っ暗になった


評価される人の基準が分からない/生き残るためには無責任になるべし

また別の部署での話。
前任と交代で担当者一人、私だけがその業務をするらしい
1から10までやったことのない仕事。
新しく何かを始めると言うより、前々からあるものを継続するタイプの、前後関係の把握が必要なややこしい事務。

不安で、何が分からないかも分からない状況。
前任者は確かにいた、が、1日も引き継ぎなく異動
会社の運営に疑問を感じずにはいれず、何度目かの失望。慣れっこだ。

JTCとは言えないが、ベンチャーでもない。
周りを見ると、同期や先輩は、同じ業務に携わる上司の下についていた
私には業務を理解できる上司や同僚がいなかった

緊急対応が必要なアクシデントが起こったとき、担当役員に報連相するも、『難しいことわかんないから、君が決めて』と言われる始末。

虚無。孤独。押し付けられる責任

分からないことが分からないレベルの深い闇の中、助けてくれる人も、話が少しでもわかる人もいない

ふと横を見ると、会社の中では『仕事ができる』と言われる上司と、後輩が和気藹々と歓談。

今の仕事をもう少しできるようになったら、さっさと辞めよ。心に決めた瞬間。

担当役員からの評価は悪くなかった。ただ、業務のことを分かっていない中で評価されるので、何が良くて、何が悪いかのフィードバックがふんわりゆるふわ。何も合点が行かなかった。

とりあえず、一人でやってたようだから評価したというのが見え透いていた。
担当役員らは社内でのコネ作りのため、業務中にいつもゴルフや飲み会の計画をしていた。

ゴシップや人事異動、ひどい時は女子社員の誰が可愛いかといった話ばかりしていて、仕事をしていなかった。

こういう人が管理職として、評価される会社では私は評価されないだろうな。見方を変えると安泰でいい会社って言える、でも長くは続かないだろうな。いつも思っていた。

彼らは、たまに私と話すとき、支離滅裂でどうしてその結論になったのかが分からない話を繰り返した。話し合いにならずに、聞いている質問の答えが返って来ずに、諦めることばかりだった。

そのうち私に上司がついた
彼も未経験で、私が彼に仕事を教える羽目になった。
彼が他の部門から責められると、『「私」君がそう言ったから・・・』といつも私のせいにして逃げた。

更に担当役員も変わった
会社でも悪評が高い定年の近い男。サイコパス
数日働いて、私はわかった。彼は物忘れが激しい。
自分の言ったことをきちんと覚えてられない、何でも朝令暮改というタイプ。

それに、直ぐ怒鳴り、怒り散らかすタイプ。プライドの高い男が高齢になり、感情のコントロールができないという様子だった。

私が見るに、彼自身少しは自分がボケ始めていることや衰え始めていることに気がついているが、権力を維持するためにもボケを部下に悟られないように、勢いと恐怖で支配すると決めて動いているようだった。

彼は、ほぼ毎日部下達を始業前からオフィス全体に響き渡るほど怒鳴り散らかしていた
部下のやることなすこと全てを否定し、最終的には『お前はダメだ』と人格を否定するほどだった
1日中聞いていると、こちらの気が滅入るほど

人前で怒鳴られ続けた私の上司は、日に日に自信を失い、萎縮して行くばかりだった。

あぁ、こういう人が出世するんだ。大きな声でマウントすると仕事できるって会社は判断するんだ
合点が言った。私は声が小さく、オシが弱い。なるほど

バイバイ。

経験の少なさから、苦戦しつつもなんとか転職先が決まった。
それから数年して、その会社は潰れた。やめて良かった。(続く)

聞かないで、『あなたはどんな人ですか?』

大学3年生、就活、就活、就活、不況に地震

就活
先延ばし先延ばしにしていた、『やりたいこと』を明確にしなければならなかった。
しかも、自分の中で確立させるだけではなく、『会社』に向かってそれをアピールしなければならないと言う。

何それ、怖い。逃げたくてたまらない

周りや世の中の動きを見るに、何やら相当買い手市場で、就職状況は全く芳しくないとのことだった(翌年は更に酷かったようだ)。

『え、先輩たちは、好景気もあって割と良いところに就職できたと聞いていたのに・・・』

ゲラゲラ笑える日々は束の間、すぐにピンチがやってきた。
自己分析、自己分析、自己分析
学校も就活セミナーもうるさいくらい自己分析を求めてきた。

自分を掘ってみたとして、自分が底の浅い人間であることが既に見えていた。
就活を始める前から負け戦にいく気持ち、どんより。

県外の就活フェスとやらにも行った。
学歴フィルターやら、就活サイトの入学実績大学を見て、気を落とすばかりだった

『多くを望むな、足るを知れ。お前はそんなに高みには行けない。』と現実を見せつけられた。

あぁ、過去の私が努力をしていなかったばっかりに、今の私が苦しんでいる。
努力も遺伝子も全部ダメな負け組・・・

ネガティヴィティの洪水、止めどないマイナス思考の連鎖。

その中でも、田舎にいては職がないと思い、都市部で就職活動をした。数打ちゃ当たるだろうと願った。

私は昔から都会への憧れが強かった。ファッション、グルメ、摩天楼、電車、人の多さ、出会い、会社の多さ、コンサートや美術館。田舎にないもの全部があって、キラキラしていると思っていた。1年中クリスマスみたいな。

それに、ゲイにとっては田舎は住みにくかった。
田舎のゲイには結婚をしてゲイ活動をする人も多い。人口も少ないので出会いはなかった。私の知っている人は割と結婚している人が多かった。生きづら。

就職活動にこんなに金とパワーがかかるとは思っていなかった。
都会へ行くための交通費、宿泊費、食費。面接と面接の合間のカフェ代。1回の滞在で効率よく入らない説明会、面接。
説明会に行くだけで、日に日に減っていく貯金。休みが増えていくバイト。


耐え抜いて生きたことは、『頑張り』ではない

エントリーシートを書くと、自分の人生の薄っぺらさがまざまざと可視化された
人と比較されて、選ばれるためには、個性が貧弱で何もやってない。
華やかな経験が何一つなかった。
それをカバーできる学歴もなかった。かと言って、人柄で売っていこうにも、人から好かれる愛嬌も持ち合わせてない。

この商品をどうアピールすれば良いのか分からず途方に暮れた

一度悩んで、教授に『学費の工面を頑張ったこと』にできるか聞いてみたが、『そんな人はいくらでもいるし、そんなことを書くのではない』と冷静に返された。
『じゃあ何を書けば・・・』更に光が見えなくなった。
今考えれば、世の中の就活というシステムが、『苦学したこと』をアピールポイントとして到底見做さないことは重々分かる
が、私にはそれしかなかった。そんなことも分からず質問をしてしまった自分が恥ずかしくなった。

虐待されたり、毒親に苦しんだり、ヤングケアラーだったり。
孤児院で育ったり、ときには病気を患ったり、障害をもったり。
そういう自分の力ではどうしようもない、子どもの力ではどうしようもない不可抗力を頑張って耐えても生き延びても、人は、企業は、社会は、それを『頑張ってきたこと』として認めない
そんなことは頑張ったことにはカウントしない。
『勉強、運動、学外活動、海外経験、受賞歴』、金や周りのサポートを得て結実するものしか努力ではないらしい。

それを跳ね返して、運によって生まれながら裕福だったり、家庭環境が良かったりする人を超えなければ評価されない
マイナスからスタートした人間は要らない。
家庭環境が良い子女を採用します、と言う社会の遠回しな意思表示。

どうしようもない無力感。
ここで負けてはならないとはわかるが、心はへし折られた。
人は圧倒的な無力感を植え付けられると、立ち上がることができなくなる。

それでもなんとか、ゼミやバイトから学生時代に頑張ったことを絞り出して、アピールポイントとすることにした。

 

やはり現実は厳しいぜ〜貧困子どもの体験格差〜

やっぱり、面接で更に厳しい現実を知ることとなった。
特に、集団面接の場で。

周りのアピールポイントが私の比ではなく遥かに高尚で素晴らしいのだ。
『海外留学や生まれた時からの海外経験』、『子どもの頃からやっていたスポーツや芸術、音楽活動での表彰歴』、『起業や投資経験』、『NPO立上げやボランティア活動』等々枚挙にいとまがない。
それに皆、バイトやサークルのリーダーを兼務しているらしい。

今で言う『ガクチカ』、学生時代に力を入れてきたことだ。
あぁ、勝てる要素がない。

海外は当然国内旅行にも行ったことがないし、塾は辛うじてあるがそれ以外の習い事をしたことはない。金のかかることは避けてきた。

『体験格差』、最近になって名前がつけられた格差。
まさにそれだった。就活の面接で、人と差をつける華やかでよく刺さる武器は、いかに丁寧に金をかけて育てられたかに繋がっていた(もちろんそれだけなく本人の努力もあるが、傾向としては大きいと感じた)。

だがそれでもなんとか、次のステップに進める企業もあった。
しかし、アピールポイントが弱いのか、人間的に魅力がないのか、会社とのマッチ度が低いのか、悉くお祈りされた。

田舎の名の知れぬ大学の子が都会で就活をするのは、なかなか厳しかった。
地元で就活をする周りの子には徐々に内定が出始めていた。

選考が進んでは落とされ、手持ちを増やしては減るにつれ、どんどん自分が否定されているような気がして、心が落ち込んできた

それでも笑顔を作って面接を受け続けた。
第一志望の会社の最終面接では、薄汚れたメガネの人事が『今年は例年はウチを受けない⚫︎大や⚫︎大の人も受けてるけど、君何か勝てるところある?』と嫌味に聞かれた。

よくある圧迫面接だとは思うが、無い見栄は張れず。
心折れかけていた私は『勝てるところはないとは思いますが、一生懸命勝てるよう頑張ります』としか言えなかった。

もちろん落ちた。

自尊心はすり減り、貯金も減ったころ、ある会社が拾ってくれた。有難い。

大企業のグループ会社だった。
捨てる神あれば、拾う神あり

私は田舎から出られる切符を手に入れた。
友達にも就職のために留年する子もいた。私にはそれはできない状況だった。


関心を見つける力欠如、卒論

大学4年生。
大学4年生の春以降、地獄の就活からようやく解放され、ゼミやバイトの友達と遊んだ。
卒業旅行にも行った。海外旅行に行く友達もいたが、金銭的に難しかったので、私が行く旅行は国内にしてもらった。

卒業論文
あなたは何に関心があり、何をどう調べますか?と問われる
就活に続き、私が問われる。テーマを決めるのが辛くて、焦りばかりを感じていた。
小中学校の自由学習の発展系。苦手だ。

自発的に、私のどこかから、好奇心や興味の泉が湧いてくることはなかった
就職活動で味わった敗北感や劣等感は正しかった。社会で求められているとされる、自発性や創造性が私には圧倒的に足りていなかった。欠如していた。

これは、幼い頃から『欲しいものを欲しい』と言わない、言えない状況で生きてきたから、自分が好きなもの、欲しいものが自分でよく分からなくなってしまった弊害だと思う。

『あなたはどうしたい?』『あなたはどんな人?』は問われると怖い
どうしたくとも、どんな人でありたくとも、その意思が届くことはなかった。
ただ辛いことが早く過ぎ去ればいいと思いながら、我慢してればいいと思って生きてきたから。

とは言え、卒論を提出しないと折角決まった就職がワヤになるので、卒業するためにも絞り出したのが、就職する業界に関する研究だった。

大学に入って、ほぼ初めての調べもの。研究とは言えないレベルの。
4年間通して、私は大学を『自分で進んで学ぶ』と言うよりも『就職するためのライセンス』としか認識できていなかった。

大卒資格という目的は達成したが、薄っぺらい私しか出来上がっていなかった。

就職先から配属先の希望を聞かれた
どこか地方に配属かと思ったが、東京を希望した。
本社は東京。大きなクライアントは東京に集中、若い内から高度な案件に携われるようになりたい、とかそういった新人が考えそうなことを並べてお願いしてみた。
希望が通った。

本当は会社が決めた配属先でいい、と答えるつもりだった。
が、知り合いから『絶対東京がいい、東京と答えておけ』と強くプッシュされたので東京を目指した。
本当は大阪や東京といった大都市で働きたかった。だから嬉しかった。
一人で考えて決めていたら、自分の希望を伝えることなんてしなかっただろう。

『私なんかが、希望を言って言い訳がない。もっと優秀な同期がまず希望を叶えられた方がいいに決まってる』なんて、自分を押し殺しただろう。


未曾有の大惨事

大学卒業から東京へ行くまでの間、実家に戻っていた。
学生寮から逃げて、急ごしらえした狭い部屋ともお別れ。
実家でテレビを見ていると、緊急地震速報が流れた。
離れた東北で今まで聞いたことない規模の地震が起きた。皆騒然とした。遠く離れた地元まで津波の警報が来ていた。

次第に情報が集まり始め、映画のワンシーンのような恐ろしい映像がテレビで流れ続けた。余震も絶えず続いている。

聞いたことのない数の被害者がいる。テレビを見るに原発にも影響があるらしい。
東日本全域で物資が足りず、電力も逼迫している。パニックだと。

東京に向けて既に送っていた荷物もちゃんと届くかどうか怪しいらしい。これから東京に出ていくのに大丈夫かな、どうなるんだろう、ということばかり頭に浮かんだ。

東京に出る頃には、東京には水が売っていないという話になっていた。
怖さもあったが、社会人生活への期待もあった。
ヤバそうな状況の中、私は東京へ向かった。(続く)

(毒)親元を離れて暮らす

ほんとうの意味での『ひとり暮らし』

生活保護から抜けて、自分の国民健康保険証を作った。
もう生活保護の子として、生活が守られなくなった
病院にはあまり行かないようにしないとな、と誓った(直ぐ歯医者に通うこととなる)。

国民年金は猶予の申請。
年取った時に払ってくれるかどうか分からないもん払ってる余裕なんてない。
今日を生き延びなきゃ。


大学1年生〜Dropout〜

大学では、寮に入った
寮は今まで経験したことがないほど縦社会の、上下関係の厳しい世界だった。
大学の寮は学生が自治していた。
寮生たちの考える自治とは、縦社会で支配された汚い空間で、毎晩酒を飲み麻雀を打つということだった。

年齢の違う人との共同生活は孤児院でしていたが、こんなに合理性を感じられないルールに縛られてはいなかったと記憶している。
寮では、各学年が混合した相部屋で暮らすこととなった。

上級生がいる時は常に下座で正座、1学年上の先輩から敬語を間違うとチクチク注意を受ける。上級生の命令は絶対。

部屋は全室喫煙。実家を出て、やっとタバコから逃れられると思っていたら、相部屋はとてもスモーキーだった。

寮には門限があり破ることは許されないと教えられた。
風呂トイレは共同で、風呂はボイラー稼働の都合なのかなぜか上級生と一緒に。

寮の行事も多々あるらしく、その行事の期間は学業よりも専念することとなっているとのことだった。

先輩の中には留年している人も多かった。
家庭が貧しいから寮に入っているのに、寮に入って留年するというのが、大学生になりたての私としては全く理解できなかった。

運動部に所属したこともなく、ましてやゲイの私には、体育会系の組織、しかもその中で共同生活することは無理だった。

折角大学に来れたのに、大学よりも日常生活で苦労をするのか。母から離れてひとりで生きていくのに、次に待ち受けるものがこれか。『うまく行かねぇな』と悪態をつくほかなかった。

今思うと、ここで体育会的な素養を身につけることができれば、今より社会に適応できるまともな人間になれていたかもしれない・・・

そうこう考えている間の数日のうち、退寮した子がひとり。
同じタイミングで入寮した子たちも、『流石にこれは・・・』といった様子で、顔を合わせると『早く寮を出たいね』と言い合った。
上級生と同じ空間にいるという緊張であまり眠れない日が続いた。
粗相をしないように、間違えないように息を殺して生きた。

初めてのアルバイト代が入った頃、私は根を上げて、親戚に連絡をした。
『もう無理だ、寮を出たい。どうにかできないか。』と。

時間を作って、荷物を引き取りに来てくれることになった。
わざわざ。大学入学早々、負けてしまい迷惑をかけてしまう自分が情けなかった。
こういうときに簡単に甘えられる『親』というものが欲しいな、とつくづく思った。

次の家が見つかるまで、たまたま同じ高校出身の子が同じ学部にいたので、その子に頼み込み、数日泊まらせてもらうことにした。ありがたかった。

『いらないよ』と言ってくれたが、きちんと金一封をお渡しした。その頃は人の好意にタダで甘えるのは絶対にダメなこと、少しでも金銭的対価を払わねば、と頑なに考える癖があった。

その日のうちに、自分で不動産屋に行き、格安のアパートを見つけた。学校激チカ。
敷金と礼金もバイト代と奨学金でギリギリ賄えそうだった。

ただ、カツカツ過ぎたので奨学金を増額する申請をした
未来の自分への負債が貯まるばかりだった

高校までと同じように、自転車で生活できる範囲で生活した。
田舎の大学生ともなると原付や車を持っている子が多く、人と行動範囲が違った。

田舎だったので、電車などの公共交通機関はない。
車やバイクがないと、すぐに毎日同じ風景の繰り返しとなった。

大学でひとり暮らしになれば、恋人でもできるのかな、と淡い期待を抱いた。
引っ越したところで田舎。同じ嗜好の人が集まる場所などなく、そんな場所に出向くこともないので、ドキドキの予感すらなかった。

ただ、ひとりの狭い部屋は気楽で生きやすかった。
知らない土地、知らない部屋。家族や友達もいない。そんな春だった。

 

気になるの芽

人付き合いが苦手な私にとって、クラスという概念のない大学で友達を見つけるのは、目を瞑って針に糸を通すほどの難易度。

部活やサークルに入れば良かったが、今までスポーツをした経験もなく、上下関係に怯えてしまっていて、酒も苦手な私は、『上下関係、飲み会、ワイワイ』というサークルにも足を遠ざけてしまっていた。

『お金ないし』と色々事前に諦めていた癖が抜けず、新しいことに挑戦する、気になることをやってみる、気になることを見つけるという心の芽が、育たなくなっていた

必要最低限のことだけをこなして、あとの余分なことはしない。我慢

それに大学生活を成立させるには、まずはバイトしなきゃ学費払えないし、生活に慣れてからサークル入れるかも、と先延ばしにしてしまった。
後になると関係が固定化され、途中で入りづらいだろうということは考えてもいなかった。

これが本当に厄介な悪癖となった。心に好奇心を芽生えさせ、気になったらそちらに向かってみる。気になる自分を許すという作業を、暇な4年間でやっておかなければならなかった。

目の前生活を理由に、そういうのからは全部目を背けた
大学の授業も、『ユリイカ!』と叫びたくなるものを見つけられなかった。
授業が悪いわけではなく、何にも興味がなかったのだ。

その割に、手に職をつけるとか公務員を目指すべく資格試験に励むとか、そんなことを考える頭はなかった
私は、1年の間に暇な虚無に仕上がっていた。


苦労してPCを買う

大学2年生。
大学1年の間、自分のPCを持っていなかった、正確に言うと持てなかった(当時は今よりは高かった)。

レポートも学校のパソコン室に行き作成した。周りでPCを持っていないのは私くらいだった。人生で、私だけ『ない』と感じる寂しさをまた味わうことになるとは。とほほ。

1年かけて、やっとの思いでバイト代を貯めPCを買った。
家でレポートを書けるようになった。

インターネットも契約をした。家でネットにつながる便利さを知った。
iPodも買った。みんな持っていたやつ。音楽が外でも聞けるようになった。

昔より、幾分人に追いつけた気がした


箸が転んでもおかしいのは幸せなこと

ゼミが始まった。
教授は、あまり人と関わることをしない、淡々としたタイプの男性。
今までも経験上なんとも苦手なタイプ。

ゼミ生としては、我の強い癖のある子が目にも鼻にもついた。
みんなどう仲良くなっていいかワカラナイ状態が半年くらい続いた。
我の強い子たちだけが喋り続けた。

ある日、仲良くなるために、みんなであだ名をつけて呼び合うようにした。
それが功を奏したのか、少し距離が縮まった。プライベートでも会うようになった。

そこからは、家に呼び合ったり、飲みに行ったりと仲良くなるまでに時間は掛からなかった。大学で、ようやく友達ができたと感じた。

バイト先も変えた。
バイト先には、偶然にも同じ大学の同級生が3人いた。
すぐに打ち解けた。

バイト終わり、家に集まり鍋をして、朝までゲームをするのが恒例となった。
今まで知らなかった。人と一緒にゲームをしたり、鍋をしたりするのがこんなに楽しいこととは。

ゼミやバイトの友達とは、よく腹を抱えて笑った。
道端に倒れ込んで転げて、呼吸困難になるくらい。

高校時代のような男女分かれたグループで、人の悪口か勉強や偏差値の話しかしない陰湿な環境ではなかった。

テレビ、音楽、恋愛、バイト、授業、将来、色々なことを気楽に話すことができた。
私が『ゲイっぽい』と言うことも特に誰も気にしなかった。何も聞かれなかった。
このグループの中では安心できた。

依然、私は将来のビジョンややりたいことなど考えてはいなかったが、冗談が通じる、一緒に笑える友達ができたので、大学生活を楽しく感じていた。(続く)

貧困に直面、受け止めきれず機能停止

世の中、やっぱり金、金、金

高校3年生。受験。
人生の集大成と言わんばかりに、教師たちは生徒を囃し立てた。
運動部の子も引退して、勉強に集中するようになって、ピリピリしたムードが漂い始めた。

いよいよ大学受験が目の前に迫ってきた。
私の頭の中は、受験費用と大学入学費用の捻出をどうするのかということでもちきりだった
そのことが頭の中をぐるぐる駆け巡り、どうすればない金を、入学前に当面必要な金を作り出せるかを考えていた。

まず先立って差し迫って必要な金を用意するにはどうすればいい。
身近な人にまとまった金を出せる人間はいない。
学校は校則がかなり厳しくバイト禁止。それに当時は調べる術が分からなかったので定かではないが、生活保護受給中に収入があると収入認定されて、働いた分保護費が減ると私は認識していた。事前に貯金はできない。野菜ひとつ貰っても収入申告しなければならないのに、収入があるなどもってのほか、許されないだろうなと。

我が家の状態で何か積み立てているわけもなく、もちろん生活保護の制度上学資保険なども契約はできない。

周囲も金に縁遠い人ばかりで、工面の方法も逃げ道も何も知らなかった。親戚中、貧困だったから。

それはそうとして、何に金がかかるのか。
まず、センター試験国公立大学前期分の試験費用はやりくりすればどうにかなる。
私立は試験受けるのも無理、自明。考えたこともない。
次は、受験地まで行く交通費と宿泊費。
その後、入学金と新しく借りる家の家賃、敷金、礼金
教科書代、国民健康保険料や数ヶ月分の生活費。湯水のように金が飛ぶと容易に考えつく。
奨学金を借りても、足りそうにない。何のために高校通ったんだろ。

そもそも、生活保護で育った子どもは、大学に進学することを想定されていない(その分に余計に給付があるわけではない、血税だしと)。
私の時代は『贅沢で歓迎されない』ことだった。

はぁ、じゃあ大学に行けると決まったらどうすりゃいいんだ
18歳になったら生活保護から外れて世帯分離か一人暮らし

それ即ち、すぐに自分の食い扶持を稼がなければならないというルールだった。当然、親に支給される金額も減る。

親と暮らしながら地元の大学に行くとしたら、世帯分離を申請する。ただ、その点について正しい情報にアクセスする術を知らず、自分で働いた分の給料が多かった場合、生活保護を切られるのではないかと考えていた。
打切りのリスクや将来を考えると、一人暮らしの方が良さそう。
だが、金がない

 

血税泥棒は早く働け

私の生まれ育った地域は、不景気で職がない。
大体、大卒でも職がない。
高卒でつける職はほぼない(工業系の高校ならあるかもしれないが、普通科で働き始める子は契約社員、パート、アルバイトだった)。
コネもツテもない。私の通う高校で就職斡旋すると言う話も耳にしたことがない。

だが、生活保護費は確実に減る。

実家に暮らしながら働き始めると、『親を扶養しろ』と市役所から何度も強く言われる。
生活保護を打ち切られたら、親の面倒を見る余裕はない。
生きていけない。

成績が悪いのは概ね自業自得だが、生活保護の子として育ったばっかりに浪人はほぼ無理に等しかった。
自分で十分な生活費を稼ぎながら、『予備校に通いながら勉強漬け』の子を打ち負かさなければならない

そもそも『持っていない』側の人間が上を目指したいなら、人より何十倍も努力をしなければならないという現実に直面した
辛かった。

自分の人生辛いことばかりだと思っていたが、まだ我慢が、努力が足りないのだと言われている気分だった
若しくは、『分不相応なことを望むな、お前には運も才能もない』とハッキリと言われたような気分

 

泣きっ面に塩を塗りつけに来る蜂

春先から毎日そんなことを考え、答えのない日々を送っていた。
最後の追い込みと気合を入れているクラスメイトが頑張っている夏休み、私の左耳が突然聞こえなくなった
耳が詰まった感じがして、低い音が聞こえない。
焦った。理由もわからず、ただ焦った。

数日すれば治るかと思って放置してみた。治らない。
これは、ダメだと思い近くの耳鼻科に行った。どうやら中耳炎とか、耳の気圧の問題ではないらしい。
大きな病院の紹介状をもらい、その足で病院へ向かった。

聴音検査をして問診。
突発性難聴ですね、早めに治療を始めないと聴力が戻らない可能性があります』医者は淡々と言う

『何それ、ヤバいやつ?』
今受験控えてるし、金なくて悩んでるんだけど、今病気しなきゃいけないの?

人生の不公平さを睨め付けながら、悔しさから唇を噛んでみた
とは言うものの、冷静、と言うか諦めるのが得意な私は、この夏をさっさと諦めて、人生に足手纏いな病気を治すことにした。治るのかどうかよく分からないが。

それから、毎日点滴に病院へ通うこととなった。

夏の夏期講習は行けなかった。教師に事情を説明するも、特に関心がなさそうだった。
医者は『ストレスが原因な場合が多いです。ストレスを溜めないように。』と言った。

これは、30を超えた今でもよく理解ができないのだが、『ストレスを溜めない』方法がわからないストレスを溜めないようにどうすれば良いか考えている時点で、ストレスが溜まっていると言うのに。簡単にいってくれるな、先生、あんただったらどうすんだよ。

ストレスの原因は明白だった。貧困に真正面から向き合ってしまったから
大学に行くための費用のことでストレスがかかって、脳味噌がパンクしてしまったのだ。

『健康』と『大卒という学歴』を天秤にかけた時に、『健康』を選ぶより他なかった。耳がおかしい状況が常態化するのは避けたかった。数少ない楽しみである音楽を聴くことすらできなくなる。

ただ、それは、大学に行かねば貧困の連鎖から逃れることができないと盲信していた私には酷な選択でもあった
現役で大学に入れないと、大学に行けるチャンスが狭まってしまう。人生自転車操業なので、一度止まるとすぐに身体ごと横転。
簡単に浪人して、来年もっと素敵な大学に入ることなどできないのだ。
自分で自分を養う金を作り、それで人に勝てるまで勉強をする、耳が治っているか治っていないかに関係なく。

そうこう考えても、どうにもならないので勉強と金策について諦め、治療に集中することにした。
待ち受けているかもしれないヒドイ未来が、あまりにも私を虐めてくるので、私は治療中を言い訳に逃げた。
とりあえず耳を治すには、嫌なことには蓋をして、ゆっくり休むしか方法がなかった。

一週間程度点滴を打ったが、治る気配がなかった。
医者曰く『点滴で治らないと別の病気の可能性がある。メニエール病』とのことだった。

その日からそれ用の薬を飲むことになった。

数日毎に病院へ行き、聴力検査をする日々が続いた。
メニエール病用の飲み薬『イソバイド』は、喉が焼けるほど甘く、後味として酸っぱ苦いシロップで、何度飲んでも全くなれず、不快な気分になる。
ただ、それを飲む前後は、不味さが勝って本来のストレスを忘れさせてくれた。

イヤホン音楽に没頭するのが好きだった私は、楽しみが奪われて、それもストレスになっていた。宇多田ヒカルの『ULTRA BLUE』を繰り返し繰り返し聴きたかった。このアルバムは心情的にも、タイトル的にも私に寄り添ってくれた。私はこの時、『ウルトラブルー(超鬱)』だったから。

新学期が始まる頃には、聴力もほとんど回復していた。
だが、全く心は虚無で、何にもやる気が湧いてこなかった。
自分自身の事をこれほどまでに『どうでもいいや』と思ったこともなかった。情熱はなかった。

学校には適当に行った。
志望校を出せ、志望校を選べと学校がうるさいので、苦手な科目の二次試験がない近隣の大学を選んだ。
身近な親戚内には、大学に行ったことがある者がいなかったので、大学は未知の、いささかハードルの高いものであった。

 

保護者サポートプランなしのコースで

無為に過ごしていると、センター試験当日。
キットカットを食べたからどうにかなるかな、と思いながら本番。
不得意な科目では鉛筆を転がしてみた。

センター試験の帰り道、他の子とはベースの環境が違うな、としんみりしたのを覚えている。
皆は、試験後には親が車で迎えに来ている。心配そうな顔をして、子を校門で待っている。
そういえば、小中学校の卒業式とかもこんな気分になったっけ。
親、来たことなかったもんな。

案の定、二次試験もそんな感じだった。
同じ大学を受けるクラスメイトは親と一緒に現地に来ていた。私は自分で予約した格安ビジネスホテルに、一人で泊まった。

あぁ、受験って、自分自身が勉強で頑張るってだけじゃなく、親のサポートとか環境もあるんだ、今まで気づかなかった
そんな顔をよそ目に『寒いな、案の定全然できなかった。これからどうなるんだろう。』と思いながら、風吹く通学路を自転車で飛ばした。

 

志望校選択

センター試験の自己採点を終えた。下手したら平均ないなこれ。
行けるかどうかは別にして、とりあえず出願する大学を決めた。まあ行けるんじゃない?というレベルの国立。

私は家を出たかった。母や親戚から離れて暮らしたかった。
母は前より穏やかになっていたが、近くにいると新しい人生が始められない気がしていたし、ここで外に出ないと一生この場所から逃げられない気がしていた。

それに、田舎で何もない街にほとほと嫌けがさしていた。刺激が何もない。

ただ、あまりにセンター試験の結果が悪かったので、田舎のエリアを出ることはできそうになかった。
金銭面でも都会へ行くのは到底無理な話だった。
都市部へ行くには、私立に行くか、国公立に行くにはそれ相応に勉強できなければならなかった。生活費も田舎とは比べ物にならないほど高い。残念。

冗談で『浪人しよっかな』と親戚らに言ってみたが、
『浪人したら東大や京大に行けるようになるの?今の時点で勉強してないし、できてもないんだから浪人しても、今志願してるよりレベルの高い大学に行くのは難しいと思うよ』と返されて、ぐぅの根も出なかった。ぐぅ正論。

奨学金の前借り制度があるので、入学金は払えそうと知った。朗報だった。奨学金の借りる額も、最初は多めに借りておくことにした。勉学に励んでこなかったせいで、有利子しか借りられなかった。とりあえず、将来の自分に借金をして、今をなんとか生きることにした。

やれやれ。別の高校行っときゃよかったわ、と他人事のように自分の高校生活を振り返った。覆水盆に返らず、返れよ。

 

合格、一旦何とかなりそう

大学には合格していた。
インターネットで結果を見たのか、合格通知をもらって知ったのか覚えていない。
入学が現実に近づくと、大学に寮があるのでそこに住むための申込み、奨学金関係の手続き、それに授業料免除の手続き等々、金のことを詰めていかなければならなかった。
親戚が書類面ではサポートをしてくれた。母は一才役に立たなかった。

高校卒業から大学入学の間までに少しでも金を稼ごうと、アルバイトを探したが、すぐすぐに雇ってくれるアルバイトが見つからなかった。採用はされたが、中長期での労働を希望されたり、働き始めるまでに時間がかかるものばかりだった。

日雇いや取っぱらいのアルバイトを見つけるには情弱だった。

周りに良い大人がいない、しかも友達が少ないと情報で負けるなと感じた。

生活費を切り詰めて、密かに残しておいた生活保護費を大学入学して初めてのバイト代と奨学金が入るまでの生活費にするしかないと心に決めた。
ギリギリ生活できるかどうか、まずは最初のバイト代が入るまで・・・明るいスタートなはずなのに頭の中は、金、金、金で胃が少しキリキリした。

いよいよ大学へ向けて出発する日。
一人高速バスに乗った。出発前に、いつも世話をしてくれた親戚から封筒をもらった。そこには、手紙と一緒に数万円包まれていた。
簡単には受け取れないお金だった。その人も収入はほとんどなく、なけなしのお金を包んでくれていると知っていたから。その人が日々薄給を嘆き、貧しい状況に苦しんでいるのを、ずっと見てきていたから。私のためにそんなにしてくれなくても、、、

それでも、『受け取って』と封筒を渡され、私は受け取ることにした。行きのバスで、『この恩は必ず出世払いする』と誓い、見慣れた街をぼんやりと眺めた。(続く)

全部は叶いません〜あなたは希望をもって生きてはいけない人間です〜

せんせい攻撃

高校2年生になった。
男の、人の感情について理解するのが得意でない、若しくはそういうスタンスを持たない教師が担任になった。
ロボットみたいな喋り方の、表情の乏しい男だった。

進級後すぐに、『これまでの1年を振り返ってどうだったか』を点数化して振り返る課題を与えられた。それを元に、生徒と担任が面談をするそうだ。

私は正直に最低点をつけた。どの部分を切り取っても、良いと思える瞬間が見つけられなかったから。
担任からのフィードバック時、『なぜこんな低い点をつけているのか?これはお前がおかしい。楽しくする努力はしているのか?1年を振り返って、良い年ではなかったのは自分の責任である。勉強面での成績を下がっている。この成績では、志望校どころかそれ以下の大学にも行けない。考え直せ』と言われた。

担任就任間もない関係性もできていない頃に。いきなり先生からの先制攻撃
ハナから私が悪いと決めつけた、叱責するためだけの時間だった。
いじめの件を伝えたが、その話は流された。理解する気もないのが感じ取れた。
これじゃあ説明しても無駄だ。最初から聞く気がない人に必死になったら、こちらの負け。余計自分が傷つく。

いじめの件の申し送りがあったにせよ、なかったにせよ、理由も聞かず一方的に否定されたことは、彼への信頼感を一瞬で奪い去った

私は、これ以降、彼とまともに話すことができなくなった。
『何を言っても否定されそう、聞いてもらえなさそう。一方的に考えを押し付けられそう。』と。
関わると、傷つけられる予感しかしなかった。


根腐れ

2年に上がって早々、これ以上底はないと思っていた学校に対する気持ちには、2番底があることを思い知らされた。
その頃には、ほとんど勉強をしなくなっていた。

昨年のいじめが尾を引いていたし、担任への拒絶感も気持ちを後ろ向きにさせた。

そして、そういう大義名分が自分の中にできたので、どんどんどんどん怠惰になっていった
根まで腐って、水をやっても花は咲かないことを自分でも分かるくらいだった。

他に打ち込める趣味でもあれば救いがあったのだが、ファッション雑誌を読むか、流行りの音楽を聴くか、近所のスーパー銭湯に行くくらいしか時間を潰す術を知らなかった。

金のかからないことをして、時間を潰すしかなかった。
そう思いながらもとりあえず学校には行っていた。

高校生活の毎日は、今となっては思い出せないくらい、一日一日が退屈で、苦痛な日々だった。本当に退屈だった。

母はというと、依然物忘れが激しく、よく笑うおどけたおばさんになっていた。
その分、記憶力や思考力を要する込み入った問題について話し合うことはできなかったが、そんな話は以前から、能力的にできたとしても物理的にできなかったので、大差はなかった
私にとって、何かを話したり、相談する相手についぞやなってくれることはなかった。

だが、私と母は談笑できるようになった。高校に入ってからというもの、貧乏長屋は初めて明るい雰囲気に満ちていた。

人生、こっちが立てば、あっちが立たず。
『家庭も学校もうまくいく、少なくとも一般的とされる同い年の子程度には』という望みは、私には高すぎる望みなのだと思い知らされた。

将来のことなど考えてはいなかったが、さっさと高校卒業してしまいたかった。(続く)