スピカのなんとか生きる日記

30代、男、ゲイ、毒親育ち、現在無職のなんとか生きる日記

ハイテンションママ

中学2年生

この夏の母も、調子が鰻登りだった。稀に見る絶好調。

トイレでいきなりぶっ倒れたのだ
貧乏長屋のトイレは汲み取り式。

トイレの真向かいにある水しか出ない風呂場で、行水をしていたら、ドタドタドタッッと大きな音。
慌てて風呂場の戸を開けると、仰向けに倒れた母。
排泄物を床にぶちまけて、気絶をしていた。

まずは驚き、次に汚さに慄いたが、命の危険を心配してひとまず風呂場へ引き摺った。
咄嗟に、『仰向けに寝かせていては危険だ、窒息するかもしれない』と思い横むけにした。
吐瀉物が詰まると死ぬと学校で習った気がした、結局吐瀉したので私の判断は正しかった。

我ながら、ピンチな時に冷静だなと思う。

助けが必要だったので、急いで自転車で近所の祖母の家へ行き、家に来てもらった。この時電話は既に解約してしまっていた、母がイタズラに電話を掛けまくって迷惑だったから。
近所にこの醜態は晒せなかった。母はしばらくして意識が戻り、床で安静にしたら健康に戻った。

倒れた理由は、医者からもらっていた抗酒薬を飲んだ後、酒を飲んだからだった。
親戚と床を綺麗にしていると、本当に馬鹿らしい気分になった。
なんで自分ばかりこんな目に遭うんだろう、と。

この頃は、毎日毎日にお互い大声で喧嘩をしていた。酒を飲み、どこかしこに失禁をする。
親戚に預けている金を、『どこに隠した』とひどい剣幕で授業中に学校に電話をかけてきたり、つい先ほど言ったことを忘れてしまう状況だった。

それに何度も何度も、同じ話をしても噛み合わず、ヒステリックに叫ばれる状況にほとほと疲れていた。すごい剣幕で金切り声をあげて叫んでくる。目の前にいる人間と、親とまともにコミュニケーションが取れない。

『産むんじゃなかった』、『生活保護の金は私がもらっている金だ、私の金だ』、『警察に突き出してやる』と叫んだり泣いたりする姿を見るのもうんざりだった。口を開けば、酒か金の話。しかも会話にならないほど支離滅裂。

諦めても諦めても、コミュニケーションが碌に取れない状態の肉親と接するとき、どうにかすれば分かり合えるかもしれないと淡い期待を抱いてしまう

失敗すると、逆に絶望が大きくなり、怒りが爆発。

認知症の親の介護や、障害のある引き篭もりの子等のケアをする人の気持ちが分かる気がした。家族だから分かり合える、は甘い考えだ家族だから、もっと深い絶望がある

母に死んでほしいと思っていたし、いっそ殺してほしいとも思った。手を上げること一番やってはいけないことだが、もうそうされたくないなら、施設にでもどこにでも預ければいいと思っていた。

18歳まであと数年、こんな日が続くなら。
しなくていい苦労に苛まれながら、学校での成績は、学年で一番になっていた。
この頃は、全教科のテストで満点を取ることを目標に勉強をしていた。あとちょっと、ちょっとのところで達成されない、でも叶いそうだったので、ヤキモキしながら頑張っていた。

私の生きる世界は狭かった。家庭か学校か。
庇ってくれる、守ってくれる大人も周りにはほとんどいなかった

母に暴力を振るうことを祖母達は口では止めたが、私を殴ったり、縛ったりしてまでは止めなかった。
私をこの状況から救うことができないので、口頭で注意するに留めることしかできなかったのだと思う。

行為自体は最低で言い訳ができない。
ただ、親戚のうち一人は、母を叱り私の面倒を依然見てくれていた、救いだった。未だに感謝している。


彼女にしか見えない世界

この夏、母は手術をした。
夜、私と母が喧嘩をした後、母が出ていった際に溝にハマりこけたためである
脳を撮ると、何やら水も溜まっていたが、既にアルコール依存症により脳の萎縮が進んでることがわかった

手術の前日、私の元に連絡が届いた。
『母が病室からいなくなった』と。
病院関係者や祖母が病院の周りを探したが見つからない。
夜になっても見つかる気配がない、事故にあっていたら大変だし(病院の管理責任的にも)、明日は手術。

警察には通報せず、一旦朝を待つことになった。
翌朝、病院から祖母宅へ、母が近くの別の病院で見つかったと連絡があった。
なぜかポツリと、入院している病院の、近くの病院の待合室で。
事故で死んでいるとはハナから思っていなかったが、そんな奇妙なことあるもんなんだなと思い、私は塾に行った。

その日、母は手術をした。

溜まった水を抜いた。そこまでは良かった。
術後麻酔が切れてから、様子がおかしくなった
彼女の様子がおかしいのはいつものことで、どの状態が様子が正常なのかわからないのだが。

最初は医者も、『術後そういうことはある』と言っていたらしいが、どうやら本当に様子がおかしい。

母に付き添っていた祖母から親戚へ連絡があり、私にも連絡が来た。あまりに様子のおかしい母に、高齢の祖母も気が滅入ってしまい、付き添いを交替したいとのことだった。

『あなたの母なのだから、あなたが面倒を見なさい、あなたの責任でもあるのよ』と言われた。
それを言うなら、『産んだあなたにも製造物責任があるのでは、お前が産み育てた娘だろ』と思ったが、病院まで自転車を飛ばした。

先に母の元に来てくれていた、親戚に母の状態を聞いた。
聞くに、祖母に対しては、祖母が母を陥れようとしているという被害妄想を抱き、看護師や医者に対しても不信感を抱き攻撃的になっていたらしい

それに加えて、病室の下に待っている人がいると言い出し、ナースステーションを何回も抜け出そうとしたり、病室の窓から飛び降りようとしていたとのことだ。

私が病院についたときは、母は病室の壁にかかった絵画を見て、笑っていた。その絵画をテレビだと言いはり、大笑いしていた。

それに、彼女はベッド横のソファを座り、ベッドの上には遺体が横たわっていると言い出し、泣き始める始末だった。

『ただのベッドだと』と言っても本人にはそう見えていない。母の大切な人の遺体がそこにいるのだそうだ。

鬼気迫る迫力で『遺体がそこにある』と言われれば、なんだか正常なこちら側がおかしいのかと思わされる、こちらがあちらに引っ張られる。

私の目の前でも、母は病室の窓を開け、『急いで下に行かなきゃ』と飛び降りそうになっていた。幸い、窓はそう大きくは開かないが、頭一個分はねじ込めそうな大きさには開く。危険。

親戚と私は、ほとほと疲れた。

看護師や医者の前で、自分の親や親族が、常軌を逸した状態にあるのを見て、恥かしく感じた。それ以上に、目の前の人間に対して恐怖を感じた。
ただ、あまりに異常が続くと、羞恥や恐怖を通り越えて、少し笑えてきて、病室で二人笑ってしまったのを覚えている。

今では、身内の中では、特殊で世間様には言えない、でも可笑しな笑い話となっている。母ともよくこの話をして笑っている。時間が経ってようやく笑いに変えることができた。



脱走癖、意味なき涙

母は睡眠薬をもらい眠った。ようやく落ち着いた。
医者の見立てによると、酒が抜けた一時的な影響か、もしかすると統合失調症か何かではないかとのことだった。
『当病院ではこれ以上入院できない』と言い放たれ、翌日から母は精神科のある病院へ入院することになった。

母は、夏場に睡眠時間が短くなると、幻覚を見ることがあったので今回もその延長だろう、オーバーな診断だなと思った。
翌日すぐに、他の病院に運ばれていった。一旦入院することになるそうだ。

私はまた、ひとり暮らしをすることになった

ある夜、病院から祖母宅に連絡があった。
入院しているはずの母が病院にいないとのことだった
入院して一週間経たない内の出来事だったと記憶している。転院してから、見舞いにはまだ行けていない時期の話だった。

『鍵がかかっていて、看護師がいるのにどうやって・・・』
逃げ出すのが特技なんだなぁと、しみじみ思った。

今回もあまり心配はしていなかった。ただ、病院の管理には疑問が残った。

翌日、病棟にしれっと戻ってきたとの連絡があった。
懲罰房のような、個室の鍵のかかる部屋に1日入れられるとのことだった。

その後、見舞いに行った。
確かに、閉鎖病棟は、二重扉になっており、その扉の両方に鍵が付いていて、そう簡単には入退室できない仕組みになっていた。看護師の詰所も入口のところにあって、そこで受付をする。

病棟に入ると、いきなり入院患者のひとりに大声で話しかけられ、後ろをついて歩かれた。敵意はなさそうだったが、驚いた。
母のベッドの横には、じっと下を向いてブツブツ独り言を言っている痩せた女性がいた。
一応こちらから会釈はしたものの、コミュニケーションを取るのは難しそうだった。

母は明るく、ケロッとした態度で出てきた。
前回見たときは、泣きながら幻覚を見たり、病院の窓から飛び降りようとしているくらい逼迫していたが、とても穏やかになっていた。病院は楽しい、とまで言っていた。
それに既に、母には友達ができていた。先輩入院患者だ。
一緒に陶磁器を作ったり、お絵かきをしたりするアクティヴィティがあるそうだ。

穏やかになって、ゆっくり過ごせているようで何よりと思った。

その後、母は再びの病室から逃亡を図る。
友達と一緒にいなくなったらしい。
抜け出した後、どう夜を過ごしているのか毎回尋ねても、全く答えが返ってこない。毎回解明できない空白の数時間がある。
私は、宇宙人か何かに連れ去られて、中身ごと入れ替えられてるんじゃないか、なんて思っていた。

また別の日、親戚と見舞いに行った。
今度は外出許可を得て、近くでご飯を食べた。
彼女曰く、病院生活は友達も多く楽しいそうだ。
食事をし終えて、病院へ戻ろうかという段になって、母が『病院に帰りたくない』とメソメソ泣き始めた

優しい親戚は、可哀想にと思い涙を流しそうになったらしいが、私は、さっきと言ってることが違って支離滅裂だな、一瞬の気分で泣いてるだけなんだなと思い寒々しい気分になった

あぁ昔は、私が泣いて、母が去る立場だったんだなぁと思いながら、病院へ送り届けた
送り届けると、母はさっきの涙は嘘のように明るく楽しそうな様子になった(続く)