スピカのなんとか生きる日記

30代、男、ゲイ、毒親育ち、現在無職のなんとか生きる日記

希望に満ち満ちた高校生活

適応失敗

高校1年生

高校生活、中学時代はあれほど調子に乗っていたのが嘘のような時期。
結論から言って、高校生活丸々3年間全くうまくいかなかった

よく通って、卒業できたな、と今なら褒めてあげたい。
小中学校は、見知った人が多い環境で、『おかま』な私をみんな見慣れてそこそこに受け入れていたが、学区問わず、あらゆる地域から集まる高校では、私がとても異質だったらしい。

高校のクラスは、男女比で言うと3:1くらい男子の割合が多いクラス。中学時代と違って、みんな真面目で、あまり人と喋ったり、はしゃいだりするのが得意な人たちではなかった。

グループで固まると言ったら、同じ部活か同じ中学校同士でグループ。
朝、学校に来ても、皆黙って宿題をやっているような環境。
昨日何のテレビを見たとか、雑誌の話とか、そう言うのは皆無だった。

後から知ったが、男女で話をすると、付き合ってるとかどうとか噂になって面倒だから、教室の中では話さないというのが暗黙のルールのようだった。仲がいい男女は、裏でメール。

なんだか馴染めない空間だな、と思いながら始まった高校生活。

するとすぐに、ある男子生徒から悪口を言われたり、すれ違いざまにぶつかられるようになった。集団での暴力や無視等はなく、その個人が私に対して敵意を剥き出しにしてきた。

先に私が何をしたのか記憶にないが、何かしたならその理由を教えて欲しかったし、それを理由に人に嫌がらせしていい理由にはならないと思っていた
それに、彼に嫌われる云々の前に、彼とろくに話したこともなかった。
『なんか気持ち悪くて、気に入らない』とかが理由で、いじめの対象にしやすかったのだろう。
私はその対象にされるのが、ずっと鬱陶しかった。

私をいじめる彼は、中学生時代人から嫌われていて、元々はいじめられっこだったらしい。彼と同じ中学校の子に聞いた。所謂高校デビューだと。
ルックスはカッコいいと言われモテていた。勉強はあまりできないみたいだった。


いじめ、加害者はやり得

また、私は別の生徒からもいじめを受けた。
その子も同じクラスの男子生徒で、入学当初は、出席番号も近かったのでよく話していた。
だが、席替えなどもあり、話もあまり合わなかったので話をしなくなっていった。ただ、私は彼の悪口を言ったりはしていなかった。

教室に私を名指して、悪口を書いた紙が貼られていた

それが教師に見つかり問題となった。
教師に見つかる前に、私も気がついたが、自分で剥がすのも癪でそのまま貼っていた。パッと教室を見回したとき、犯人が誰かはすぐにわかった。
そしたら、教師に見つかり、ホームルームは犯人が見つかるまで延長されることとなった。夜遅くまで全員教室に残ることとなった。

私の件で、関係ない人たちクラスメイト達が帰れずにいるのは、居たたまれなかった。同時に、被害者である私が、なぜこんな気持ちにならなければならないのだろうと、疑問に思った

被害者が、加害者を探す段になっても、まだ辛い思いをしなければならない。おかしいと。

最終的に、犯人は見つかり、先生に注意を受けた。
彼が叱られている間、私は別室で待たされた。
お灸を据える時間が終わると、彼と私は引き合わされ、彼は教師に促され、私に謝罪した。特に心からの謝罪には見えなかった。
教師は、この件を一旦終わりにするための形式的な儀式として、私に彼との握手を求めた
私は、断った。この場は丸く納めてやるのが良いのだと分かっていたが、犯人の態度も、教師の握手でシャンシャンな軽率さにも納得がいかず、意思表示をした。これ以上責めるつもりはないが、許さないと。

後日、別の教師から、加害者である彼も、母が亡くなり父子家庭で辛いところがあると言う身の上話を聞いた
それは、私には全然関係ない

家に帰るのが遅くなった私は、いじめを受けた件を親と親戚に報告した。自分で自分がいじめられた話をするという辱めを受けるとは思わなかった。親戚達から『可哀想に』と思われるのが嫌だったし、そう思わせるのも悲しかった。

学校から彼の保護者に、この件に関して連絡を入れてはいないのが納得いかなかった。加害者は、黙っておけばそのまま自分の罪を家族に隠し通せるのだ。家族を心配させなくて済むのだ。

そこは、学校が加害者の親に、その子どもの加害を伝えるべきだ。親の庇護の下にある未成年の子どもなのだから、親も知る責任がある。子ども同士の喧嘩のように、当人同士で処理しようとする、何もなかったかのように握手させて終わる、事なかれ主義のような学校のスタンスには反吐が出た。

とは言え、こちらの親も学校相手に強く出れるほどしっかりしていないし、学校に訴え出てもらうわけにもいかないことは理解していたので、私はどうしようもない怒りを諦めて、そっと蓋をすることにした

家庭環境が落ち着き、以前よりは『マシ』になり始めた頃、
学校生活に暗雲が立ち込めて、私は人生の上手くいかなさを目の前に途方に暮れた。

人間関係のうまくいかなさ、いじめ、が続くにつれて、勉強も身が入らなくなった。
言い訳といえば、それまでだが、少しずつ、何もかもどうでもよくなり始めていた。
そもそも、学校に行きたくなくなっていた。

犯人は私に危害を加えなくなったが、もう一人の敵意を向いてくる彼は依然変わらなかった。
私は、一回学校を休んでしまうと、もう何もかも面倒くさくなって、学校に行かなくなることを心のどこかで理解していた
生活保護で高校留年、酷いと中退、と言うのは何がなんでも避けなければならなかった

貧乏から抜け出したい、生活を変えたい。そのためには、この貧困の再生産を、負の連鎖をどうにか断ち切らなければならないから。中学時代からずっとそう考えてきた。

だから、嫌々学校には通った。成績は底知らずの右肩下がりで、どうしようもなかった。最初は勉強は継続する努力と、気持ちの問題で解決できるものと思ってきたが、そのうち私にはそもそもそんな才能も能力もないのだと思うようになっていった。
ますます学校が嫌いになった。


かすがい、心の拠りどころ

家庭では、人生で初めての出来事が起こった。
子ネコの世話を始めたのだ。家族が増えた。
最初は、家の庭に雄ネコが現れ、次第にメス猫も来るようになった。親戚や祖母も来て、たまに餌をやっていた。
そうしている内にいつの間にか子どもを産んでいた。

母は動物が好きではなく、子ネコを飼うことには猛反対で、祖母達によくくってかかってネコの世話を家の庭でするな、と金切り声をあげていた。呆けて物忘れが激しくなっていたが、自分の主張を通したいと怒り散らかす時は、以前の母と変わりがなかった。

冬のある日、複数いた子ネコの内、1匹の前足が折れてしまっていることを、親戚が発見した。母の食料を買うついでに、ネコの世話をしに、毎日家に寄ってくれていたのだ。
あまりに可哀想で、このままなら冬を越せずに死んでしまう、と言うことで家の中にその子ネコを招き入れることにした。

母は気が狂ったように反対したが、以前ほど怒りも長く持たず体力も衰えてきたようで、最終的には一時的に家に入れることを認めた。ただ、一切ネコの世話はしない、『大家に動物を飼うなと言われている、生活保護でネコを飼うのはおかしい』と言い残した。近所の人も犬を飼っていて、汚いボロ家なので大家も五月蝿いことは言わないし、生活保護で酒を飲むのはいいのかを考えた発言ではなかった。

きょうだいの子ネコ2匹をなんとか捕まえて家に入れると、風邪を引いて目やにがべったりな状況だった。親戚が献身的にミルクを飲ませ、病院に連れて行き、なんとか一命を取り留めた。折れた前足を治すことは難しかった。

もう一人のネコは家ネコになりたがらず、家に入れておくと暴れ回るので、家から出すことにした。足の折れた子は力もなく、暴れることもなかったので、なし崩しで家ネコにすることにした。
しばらくすると子ネコはかすがいになり、母と私の関係も穏やかなものになっていった(母はあまり世話をしなかったが、可愛がり始めていた)。


無の日々

学校では、何も面白くないまま過ごす日々が続いた。
会話するクラスメイトはいたが、誰とも話が合わなかった。
担任の教師に面談で、人と合わないし、いじめられた件がずっと辛いとぼやいてみた

が、『あなたは周りより、大人だから話は合わないかもしれないね』と言われて流されて終わった。

授業で関わる人以外の知り合いができないままだった。
趣味もなく、部活はやってなかった。世界が広がらなかった。

家に帰って、自分のご飯の買い出しや家事をしなければならなかったし、そもそもお金がなかった。贅沢は一切していなくても、入った分、丁度出ていく。何も貯まらない。
何をやるにもお金がかかると思っていたから、何にいくらかかるかを考えることもハナからやめていた。

『本当にやりたいなら、お金は自分で貯めて』、『何にいくらかかるかを調べて、諦めず』等と言う声があるのも分かるが、何からどう始めていいか、基本の考え方が最初から備わっていなかった。

お金がかかることは、大抵最初から諦めなければ、あとで自分が辛い思いをすることを十分に学んでいた。

そう言えば、幼少期、母に色々せがんだときによく言われていた。
『下を見て生きろ』と。(続き)

似て非なるもの〜Who Is She?〜

安寧、決着、そして忘却〜中学3年生〜

初めての受験。成績はすこぶる良かった。学校以外でも1番をとった。
30数年生きてきて、今のところこれがこの世の春だった(これからまた春が来ることを祈るばかり)と思う。

井の中の蛙、人生の中で唯一調子に乗っていた時期だった。

『おかま』でも勉強ができたことによって、学校で虐げられるようなことはほとんどなかった。
特別好かれていたわけではないが、仲良い友達もおり、なんとか居場所を得ることができていた。

高校も難なく合格できた(私立の有名校だって合格できると塾や学校からは言われたが、到底私立なんていけるわけがないのは、自分自身が一番よく分かっていた)。

時期は全く覚えていないが、そこそこ長い入院期間を終えて母が退院した
長いひとり暮らしの終わりで、母が帰ってきてうまく一緒に暮らせるか不安だった。
帰ってきた母が、喫煙をするのも嫌だった。

母は、入院を機に当然断酒をしていた
そして遂に断酒を成功していた。病院の矯正力、素晴らしい。

それに、以前のように被害妄想に取り憑かれたり、幻覚を見たり、すぐにヒステリックになって怒鳴り散らすことはなくなっていた
本人の気質として、口論をする、言い返す癖はそのままだったが、大分マイルドになっていた。

前とは打って変わって、よく笑う。

外側は同じだが、中身をすり替えられてきたかのような感覚を覚えた。

ただ、物忘れが酷くなっていた。昨日のことが、さっきのことがよく思い出せない。何度言っても、紙に書いて復唱させても、ものを覚えられない。

昔のこと、本人が覚えておきたいことは覚えているが、最近の、生活する上で必要なことが覚えてられない。

ただ、私はすこぶる穏やかになった。
何度言っても、ものを覚えられない母にイライラしたが、昨年までの嵐のような日々はもうなかった。
あれと比べれば、よく笑う呆けた人の方が何倍も好ましかった。ようやく、落ち着いて生活ができると喜んだ。

 

グレるもの、正しく生きるのも難しかった

事情を知る祖母達からは、中学生活を通して、『よくグレなかったね』と言われることが多かった。実際には、母に対してはひどく荒れていて、正しくは生きれていなかった。
グレようにも、気持ち悪がられていたので不良の輪にも入れないし、グレるならグレるだけ金がかかることも分かっていた。

親から買ってもらうタバコ、貰った金で買う派手な服、うっかり出来たら堕すのも親の金。私には無理だ。

そこそこの家の子達の彼らが、なぜ非行に走るのかがよく分からなかった。
ヌルいとこで甘えてるな、甘えて歯向かってて羨ましいなと思っていた
そんなん甘噛みじゃん、と。少なくとも私の学校で非行にはしる子達にはそう思っていた。

母にも、親戚にも、楽しく話はできるがそれ以上ではない友達にも、グレてる人達にも、名前も知らない大人の男の人達にも、どこにも属せず、孤立している感覚で3年間を過ごした。


ハードアンドタフ

思い出すと、生きていて辛かったのがこの時期だった気がする。
生きていると、いつだって今が一番辛いと感じるが、私にとってはこの時期はハードでタフだった。

ふと思う。
母との喧嘩や、手を上げた報いを受けて、私はこれから幸せになれるのだろうか、私が幸せを感じないのはその報いなのだろうか、と。この人生は罰なのか。

ふと思う。
これまでの艱難辛苦の何一つ私が求めたものなんかじゃない、と。
求めていない運命への抗い方を間違って、罰を受ける人生なら最初から生まれたくなかった。
生まれてからの辛さも私に与えられた罰、辛さへの対処方法も正しい方法ではなかったので更に追加で罰。何したんだろ、私。

でも、いつかは絶対全部笑い話になる日が来るはず。(続く)

ハイテンションママ

中学2年生

この夏の母も、調子が鰻登りだった。稀に見る絶好調。

トイレでいきなりぶっ倒れたのだ
貧乏長屋のトイレは汲み取り式。

トイレの真向かいにある水しか出ない風呂場で、行水をしていたら、ドタドタドタッッと大きな音。
慌てて風呂場の戸を開けると、仰向けに倒れた母。
排泄物を床にぶちまけて、気絶をしていた。

まずは驚き、次に汚さに慄いたが、命の危険を心配してひとまず風呂場へ引き摺った。
咄嗟に、『仰向けに寝かせていては危険だ、窒息するかもしれない』と思い横むけにした。
吐瀉物が詰まると死ぬと学校で習った気がした、結局吐瀉したので私の判断は正しかった。

我ながら、ピンチな時に冷静だなと思う。

助けが必要だったので、急いで自転車で近所の祖母の家へ行き、家に来てもらった。この時電話は既に解約してしまっていた、母がイタズラに電話を掛けまくって迷惑だったから。
近所にこの醜態は晒せなかった。母はしばらくして意識が戻り、床で安静にしたら健康に戻った。

倒れた理由は、医者からもらっていた抗酒薬を飲んだ後、酒を飲んだからだった。
親戚と床を綺麗にしていると、本当に馬鹿らしい気分になった。
なんで自分ばかりこんな目に遭うんだろう、と。

この頃は、毎日毎日にお互い大声で喧嘩をしていた。酒を飲み、どこかしこに失禁をする。
親戚に預けている金を、『どこに隠した』とひどい剣幕で授業中に学校に電話をかけてきたり、つい先ほど言ったことを忘れてしまう状況だった。

それに何度も何度も、同じ話をしても噛み合わず、ヒステリックに叫ばれる状況にほとほと疲れていた。すごい剣幕で金切り声をあげて叫んでくる。目の前にいる人間と、親とまともにコミュニケーションが取れない。

『産むんじゃなかった』、『生活保護の金は私がもらっている金だ、私の金だ』、『警察に突き出してやる』と叫んだり泣いたりする姿を見るのもうんざりだった。口を開けば、酒か金の話。しかも会話にならないほど支離滅裂。

諦めても諦めても、コミュニケーションが碌に取れない状態の肉親と接するとき、どうにかすれば分かり合えるかもしれないと淡い期待を抱いてしまう

失敗すると、逆に絶望が大きくなり、怒りが爆発。

認知症の親の介護や、障害のある引き篭もりの子等のケアをする人の気持ちが分かる気がした。家族だから分かり合える、は甘い考えだ家族だから、もっと深い絶望がある

母に死んでほしいと思っていたし、いっそ殺してほしいとも思った。手を上げること一番やってはいけないことだが、もうそうされたくないなら、施設にでもどこにでも預ければいいと思っていた。

18歳まであと数年、こんな日が続くなら。
しなくていい苦労に苛まれながら、学校での成績は、学年で一番になっていた。
この頃は、全教科のテストで満点を取ることを目標に勉強をしていた。あとちょっと、ちょっとのところで達成されない、でも叶いそうだったので、ヤキモキしながら頑張っていた。

私の生きる世界は狭かった。家庭か学校か。
庇ってくれる、守ってくれる大人も周りにはほとんどいなかった

母に暴力を振るうことを祖母達は口では止めたが、私を殴ったり、縛ったりしてまでは止めなかった。
私をこの状況から救うことができないので、口頭で注意するに留めることしかできなかったのだと思う。

行為自体は最低で言い訳ができない。
ただ、親戚のうち一人は、母を叱り私の面倒を依然見てくれていた、救いだった。未だに感謝している。


彼女にしか見えない世界

この夏、母は手術をした。
夜、私と母が喧嘩をした後、母が出ていった際に溝にハマりこけたためである
脳を撮ると、何やら水も溜まっていたが、既にアルコール依存症により脳の萎縮が進んでることがわかった

手術の前日、私の元に連絡が届いた。
『母が病室からいなくなった』と。
病院関係者や祖母が病院の周りを探したが見つからない。
夜になっても見つかる気配がない、事故にあっていたら大変だし(病院の管理責任的にも)、明日は手術。

警察には通報せず、一旦朝を待つことになった。
翌朝、病院から祖母宅へ、母が近くの別の病院で見つかったと連絡があった。
なぜかポツリと、入院している病院の、近くの病院の待合室で。
事故で死んでいるとはハナから思っていなかったが、そんな奇妙なことあるもんなんだなと思い、私は塾に行った。

その日、母は手術をした。

溜まった水を抜いた。そこまでは良かった。
術後麻酔が切れてから、様子がおかしくなった
彼女の様子がおかしいのはいつものことで、どの状態が様子が正常なのかわからないのだが。

最初は医者も、『術後そういうことはある』と言っていたらしいが、どうやら本当に様子がおかしい。

母に付き添っていた祖母から親戚へ連絡があり、私にも連絡が来た。あまりに様子のおかしい母に、高齢の祖母も気が滅入ってしまい、付き添いを交替したいとのことだった。

『あなたの母なのだから、あなたが面倒を見なさい、あなたの責任でもあるのよ』と言われた。
それを言うなら、『産んだあなたにも製造物責任があるのでは、お前が産み育てた娘だろ』と思ったが、病院まで自転車を飛ばした。

先に母の元に来てくれていた、親戚に母の状態を聞いた。
聞くに、祖母に対しては、祖母が母を陥れようとしているという被害妄想を抱き、看護師や医者に対しても不信感を抱き攻撃的になっていたらしい

それに加えて、病室の下に待っている人がいると言い出し、ナースステーションを何回も抜け出そうとしたり、病室の窓から飛び降りようとしていたとのことだ。

私が病院についたときは、母は病室の壁にかかった絵画を見て、笑っていた。その絵画をテレビだと言いはり、大笑いしていた。

それに、彼女はベッド横のソファを座り、ベッドの上には遺体が横たわっていると言い出し、泣き始める始末だった。

『ただのベッドだと』と言っても本人にはそう見えていない。母の大切な人の遺体がそこにいるのだそうだ。

鬼気迫る迫力で『遺体がそこにある』と言われれば、なんだか正常なこちら側がおかしいのかと思わされる、こちらがあちらに引っ張られる。

私の目の前でも、母は病室の窓を開け、『急いで下に行かなきゃ』と飛び降りそうになっていた。幸い、窓はそう大きくは開かないが、頭一個分はねじ込めそうな大きさには開く。危険。

親戚と私は、ほとほと疲れた。

看護師や医者の前で、自分の親や親族が、常軌を逸した状態にあるのを見て、恥かしく感じた。それ以上に、目の前の人間に対して恐怖を感じた。
ただ、あまりに異常が続くと、羞恥や恐怖を通り越えて、少し笑えてきて、病室で二人笑ってしまったのを覚えている。

今では、身内の中では、特殊で世間様には言えない、でも可笑しな笑い話となっている。母ともよくこの話をして笑っている。時間が経ってようやく笑いに変えることができた。



脱走癖、意味なき涙

母は睡眠薬をもらい眠った。ようやく落ち着いた。
医者の見立てによると、酒が抜けた一時的な影響か、もしかすると統合失調症か何かではないかとのことだった。
『当病院ではこれ以上入院できない』と言い放たれ、翌日から母は精神科のある病院へ入院することになった。

母は、夏場に睡眠時間が短くなると、幻覚を見ることがあったので今回もその延長だろう、オーバーな診断だなと思った。
翌日すぐに、他の病院に運ばれていった。一旦入院することになるそうだ。

私はまた、ひとり暮らしをすることになった

ある夜、病院から祖母宅に連絡があった。
入院しているはずの母が病院にいないとのことだった
入院して一週間経たない内の出来事だったと記憶している。転院してから、見舞いにはまだ行けていない時期の話だった。

『鍵がかかっていて、看護師がいるのにどうやって・・・』
逃げ出すのが特技なんだなぁと、しみじみ思った。

今回もあまり心配はしていなかった。ただ、病院の管理には疑問が残った。

翌日、病棟にしれっと戻ってきたとの連絡があった。
懲罰房のような、個室の鍵のかかる部屋に1日入れられるとのことだった。

その後、見舞いに行った。
確かに、閉鎖病棟は、二重扉になっており、その扉の両方に鍵が付いていて、そう簡単には入退室できない仕組みになっていた。看護師の詰所も入口のところにあって、そこで受付をする。

病棟に入ると、いきなり入院患者のひとりに大声で話しかけられ、後ろをついて歩かれた。敵意はなさそうだったが、驚いた。
母のベッドの横には、じっと下を向いてブツブツ独り言を言っている痩せた女性がいた。
一応こちらから会釈はしたものの、コミュニケーションを取るのは難しそうだった。

母は明るく、ケロッとした態度で出てきた。
前回見たときは、泣きながら幻覚を見たり、病院の窓から飛び降りようとしているくらい逼迫していたが、とても穏やかになっていた。病院は楽しい、とまで言っていた。
それに既に、母には友達ができていた。先輩入院患者だ。
一緒に陶磁器を作ったり、お絵かきをしたりするアクティヴィティがあるそうだ。

穏やかになって、ゆっくり過ごせているようで何よりと思った。

その後、母は再びの病室から逃亡を図る。
友達と一緒にいなくなったらしい。
抜け出した後、どう夜を過ごしているのか毎回尋ねても、全く答えが返ってこない。毎回解明できない空白の数時間がある。
私は、宇宙人か何かに連れ去られて、中身ごと入れ替えられてるんじゃないか、なんて思っていた。

また別の日、親戚と見舞いに行った。
今度は外出許可を得て、近くでご飯を食べた。
彼女曰く、病院生活は友達も多く楽しいそうだ。
食事をし終えて、病院へ戻ろうかという段になって、母が『病院に帰りたくない』とメソメソ泣き始めた

優しい親戚は、可哀想にと思い涙を流しそうになったらしいが、私は、さっきと言ってることが違って支離滅裂だな、一瞬の気分で泣いてるだけなんだなと思い寒々しい気分になった

あぁ昔は、私が泣いて、母が去る立場だったんだなぁと思いながら、病院へ送り届けた
送り届けると、母はさっきの涙は嘘のように明るく楽しそうな様子になった(続く)

優等生の荒くれ思春期

中学生、制服、少し大人になった気分。
見たことない子もいっぱい。

 

プリテンダー

中学校生活は、両極端だった

学校生活の面では発見が多かった。
目標を見つけて達成する面白さ、努力、風変わりではみ出していた人間が、ある種認められることにより集団内で獲得するポジション。

家庭生活の面では、外に隠しておかなければならないことが増えていった。
どんどんおかしくなる母、母に手を挙げてしまう私、ひとり暮らし。

 

中学1年生

この頃、母はすっかり学校生活に関わる手続きをしなくなっていた。
というか、私と関わることを、私も母と関わることをやめてしまっていた。
親戚が代わりに事務手続をやってくれた(保護者面談も)。

初めての定期テスト。割と好感触だった。クラスの中で上位。
塾には通い続けていたが、小学生の頃は上位になることはなかった。
『あ、やればできるんだ』初めて思った。勉強も運動も芸術も、どれをとっても特に特技がなく、褒められたこともなかった私。追い風が吹いている気がした。

『これはチャンスだ』、偶然に意味を見出した。
そこから成績は右肩上がりに上がり始めた。学校の授業も、塾も、家での勉強も楽しくて仕方がなかった。

今思うと、『勉強そのもの』ではなく、やったら結果がついてくること、点数が出ることがゲームのようで楽しかった

取り柄のない『おかま』の子が、やっと社会で調子に乗れる、頑張れるフィールドを見つけた気がした。

仮想敵(ライバル)を作ったり、目標点を設けたりして、勉強をするようになっていった。

中学に入ると、ひとり部屋になり、折り畳みの机を買い、自分の部屋に自由に電気をつけることができた。冷暖房器具はないが、マイルームは快適だった。音楽や深夜のラジオが友達だった。

ただ、酔った母は、以前にも増して状態が悪くなった。
悪態をついたり、酒を飲みに出たはいいが、家の金を使い込んだり、ツケで飲んだりして私を困らせた。
母がお金の管理をできないため、お金は近所の祖母にお願いすることとにした。私は週に1〜2回、その週の自分の分の生活費を受け取りに行くことになった。
流石に子どもだったので、あればあるだけ使ってしまうリスクを考えてのことだったと思う。
それに週に数回は、祖母の家に顔を見せるので生存確認もする意味があったと思う。たまに料理を食べさせてもらった。

母には、まともになって欲しいと言っても、願ってもどうにもならなかった。
彼女に期待しなくなったはずだったが、まだ、親に対して子が本気で願えば『どこかで変わってくれる』と淡い期待をしていた。

この頃はまだ、人が人を変えることは不可能とは知らなかった

金を使い込んで、泥酔して帰ってきた日は、私は母を叩いた。
勝手に使いこみ、家賃が払えなくなることもあった。
大家に嫌味を言われるのは、支払いに行く私だった。許せなかった。

『あぁ、死んでくれれば良いのに』と思った
泣きながら母が叫ぶ、『あんたなんか産まなきゃ良かった』に対して、『誰が産んでくれと頼んだ』と答えるくらいに、私の内面は荒んでいた

勝手に産んで、勝手に捨てて、勝手に拾って、勝手に放置。

それでも分かってもらえると思い、自分の思いの行き場が分からず衝動で手が出る、悪手。
やってはならない禁忌。私の罪。この頃私は最低だった。

勉強のできる子を演じながら、そんな荒くれ者もやっていた。どちらも私だった。


去る者は去る、そういう運命

あぁ、なんとか繋ぎ止めようと祈っても、力で訴えても、離れていくものは立ち止まってすらくれない。無力。
足元に縋って泣きついても、心離れた人にとってはそれはただ邪魔で煩いだけ。黙って見送るしかない。
引き留めようとすればするほど、自分が虚しくなる。
そこで、自分を変わろうとしても、変えても、結果は同じ。

相手が消えてしまわないか、捨てられないかと相手の顔色を伺うようになるだけで、そんなの幸せじゃない
そのうち自分に惨めさが疲れ果て、自分自身が嫌いになる。

苦難が喉元を過ぎ去って過去の思い出話になった頃、私は親子関係からそう学んだ。
そしてこれは他の人間関係でも同じだと悟った。心離れたものを繋ぎ止める術は何一つない、と。去る者は去る、不可避

 

『強い』は損、甘えたもん勝ち

口論、暴力に嫌気がさした母はまた消えた。出て行っては帰らない日が続いた。仕方ないことだ。

どこで知り合ったか知らない男の部屋に転がり込んだらしい。

私は、一人で暮らしていた。夜ひとりで電気やテレビを消して眠れるようになっていた。朝は目覚ましで起き、たまには学校に冷凍食品で作ったお弁当を持参した。

しばしば親戚達から、『一人で育って偉いね』、『若いうちの苦労はしておいて損はないよ』、『強いね』と言われた

強くない方が、人から施しを受けられて得だな、と冷めた気持ちで聞いていた。

手のかかる他の子達の方が、一人で何もできない彼ら彼女らの方が、ずっと愛されているし大切にされていて、私はやらなくていい苦労をしているなと。

学校でも、聞き分けの良い子より、聞き分けがなく人に迷惑をかける不良の方が先生が世話を焼く。手をかける時間がかかればかかるほど、物理的な接触が増え、愛されるような気がしていた。

実際むしろ苦労せずのびのびと育った方が、社会に出て上手くいくことを知り、絶望に打ちひしがれるのはもっと後の話、そう30過ぎた今だ。 

後々、浜崎あゆみの『A Song For XX』を聞いたとき、自分のことを歌っているような、私のための歌のような気持ちになった。
彼女の1stアルバム表題曲で、力が入った曲だっただろう。その分、本人のリアルさ、切実さを本気でぶつけている、嘘のない歌詞だと感じた。未だに聞くと、うるっと来るほど。

親戚は所詮親戚で、『親族』ではあるものの『家族』ではない。しかも親戚は『親』ではないので、駄々をこねたり、甘えたりすることはできない
私の世話を多少なりともしてくれることは、当然なことではないため、恩義を感じねばならないと考えていた。
甘えられない、世話になっている人。

だから当然私は、彼らに対していつも遠慮がちであった。大人の態度で、聞き分けよく接さなければと思っていた。


秘密の一人暮らし(の秘密)

家出した母は荒れていた。自分の自由を追求しすぎるあまり、他人にことごとく迷惑をかけていた。

酒に酔い道端で寝ているところを通報され、警察に運ばれてきたこともある。
ひとりでテレビを見ていた夜、家の庭がいきなり懐中電灯で照らされ、数人の男の声が外から聞こえる。強盗だったらどうしよう、とヒヤリ。
じーっと静かにしていると、ガラス戸がノックされ、渋々開けると警察が立っていた。
一人で暮らしている私は、逮捕されるかと思った。一瞬のうちに頭が真っ白になった。

その警察の後ろに酩酊した母がいた。

他に大変なことも色々あった。
夜中の急な腹痛や吐き気。我慢してもしきれなくなった頃、電話で母の携帯電話へ連絡をした(中学校に上がることには電話をどうにか手に入れていた、生活保護でも電話持って良いんだと喜んだ)。直ぐには繋がらず、痛みに苛立ちながらかけ続けた。

どうにか母に帰ってきてもらい、救急病院へ行った。
咄嗟になると、親戚には迷惑をかけられないと思ってしまったし、救急車を呼ぶという考えも浮かばなかった。近所との付き合いもなかった。

急性胃腸炎で数日入院した。

母は帰ってきたが、また直ぐ出ていくだろうなという予感がした。案の定、学校から帰ると消えていた。

しっかりした体(てい)でやっていたが、危ない事故もなかったわけではない。
ボヤだ。
ペットボトルのお茶についていたおまけのお香が原因、今でも覚えている。
良い香りかなと、家にあった母のライターでつけてみた。

炊き終わったのを確認した後、お香とその容器をゴミ箱へ『きちんと』捨てた。
別の部屋でテレビを見ていると、やけに目が痛い。開けてられないくらいで、心なしか部屋に煙が充満しているようだ。窓を開けて換気をしてみるもまだ煙い。

ふと、隣の部屋を見ると襖の隙間から黒い煙がもくもく。
その瞬間やっと火事、と理解した。

消防車を呼ぶ?母か親戚に電話をする?近所の人に知らせる?
それはひとりで住んでいる特殊な状況を知られることになるし、親戚には『ちゃんと』一人で暮らして偉い私を演じなければならないし、親戚に迷惑をかけたくはない。
母に連絡がつく頃には全焼して、近所の貧乏長屋に延焼、結果全焼してしまう。

目の前の煙を前に、私は、自分で消すしかなかった。

火は、部屋の角のみ燃え上がっており、幸い天井まで回っていなかった。
『火を消すときは、酸素を断つ』と習った気がした。自分の頭より少し高いところまで火は登っていたが、『いける』と思った。

自分の使っていた布団、毛布、手近にあったお気に入りのコート、その辺にある厚い布を総動員し火に被せた。
布団を足で踏んで消化したので、足が火傷して少しただれた。なんとか火が止まった。

だが、鎮火してもやるべきことがあった。

焼けこげた障子、燃えた畳、消火に使った布団、それと部屋の焦げ臭さ。
母が帰ってきたら、親戚が来たら、バレてめんどくさいことになってしまう。
これを機に母が正常に戻るとも思えない。
それに一番気にかかっていたのは、修理するにも金がかかること。

『一旦、なかったことにしよう』と思った。

燃えた畳はベッドの下に隠された綺麗な畳と入換え、障子も押入れの障子と向きを変えて入れ直し、布団と服はすぐに捨てた。
匂いだけ最後まで残った。ファブリーズや消臭剤ではどうしようもない。焦げ臭さで、生活するのが難しいくらいだった。

それからしばらく家の窓を開け放って生活をした。真冬だった。

その後、母が帰ってきた時も、シラフの親戚が訪ねてきた時も、気づかれなかった。
一度、『あのお気に入りのコートどうしたの』と聞かれたとき、返答に困ったくらいだった。

学校では勉強のできるちょっと普通じゃない子、家庭では荒んだ一人暮らしをする子、外では大人の男性に声をかけられる子だった。いろんな方面に話せないことが増えていった。(続く)

疲れ始め、堪忍袋

母の夏、始まる

夏は、母が絶好調になる季節だ
この年の夏も、彼女は飛ばしていた。

昼夜逆転し、働いてもいない、動きもしないので、数日眠れなくなる時があるらしい。それが夏の暑さと合わさると、体力的に堪えて、幻覚を見るようになるのだ

何もないところを見て、いきなり話し始める母

私を殺すために誰かが付け狙っていると言い出す母(母自身ではなく、私が殺される対象で本当に嫌だった)。

夜な夜な幻覚を見て、外へ徘徊する母(事故にでもあったらどうするのだろう)。

ただただ怖かった。
お化けが大嫌いでビビリな私は、幻覚と理解しながらも、もしかしたら母の言っていることは本当かもしれない、本当だったらどうしようとビクビクしていた。
おっかなかった。

それくらい、幻覚を見ている人は、本気
必死で幻覚が事実であるとこちらに訴えてくるのだ。
そのマジな眼差しの前では、逆に自分自身を疑うしかなくなってしまうほど。
鬼気迫るとはこのこと。

数日、幻覚を見て騒ぎ散らかした後、母はぐっすり眠り、元に戻っていった。
元に戻っても、飲み散らかしてキーキー五月蝿い状態なのだが。

2人しかいない家族が、頼るべき親がそういう状況であるのは、私から生きる上での安心感を更に更に奪っていった。
彼女への信頼は底をついていると思っていたが、まだ底はなかった。

頼りになるものは何もない、しかし自分は無力。
10歳そこそこになり、人より大人びた私は、早く大人になることを願った。

 

よなよなきエール

この冬頃から、母は夜、家からいなくなることが増えた
幻覚とは関係なく。健康な状態に戻ってからしばらくしての冬。

夜ふと目が覚めると、母がいない。
怖がりな私は、夜一人でいるのが耐えられなかった。
何度も何度も、夜出て行かないようにお願いした。

だが、ふと目が覚めるといないのだ。

幾度、夜は家にいる約束を取り付けても、その日のうちに反故にされる。
無力感、儚さ、約束とはなんなのかと言う疑問。
約束を破られ続ける子どもの心理。

そういえば昔からよく言われていた『約束に絶対はない、絶対はない』と
約束を特別なものと思っていた私には、理解が難しかった。
じゃあそもそも、最初からしない方が良かった。


母的には、うるさくせがまれるから当座凌ぎのために口約束を取り付けて流していたのだろう。

約束をして果たすことは信頼関係を築くことなのに。

それに加えて、『お化けなんていない、一番怖いのは人間』と教え込まれた。真理が過ぎるぜ。
30過ぎの中年になった今は賛同できるが、お化け怖い怖い期の渦中にいる人を正論で切ったところで理解できないよ。

『お化けはいない、そして約束に絶対はない』、だから私は、お前がいくら夜一人でいるのが怖くたって、自由に出ていくよ、って合わせ技。
彼女は自由。子どものお願いなんかじゃ縛れやしない

外出して、母は何をしていたかというと、ふらっと飲みに出たり、義父の家に行ったりしていたらしい。

そのうち義父の家に行ったっきり、家に帰らず、私もそちらへ行くようにと言われるようになった。

一方、義父からは、早く家に帰れと言われるも、動こうとしない母。
遂には、生活保護の金を私に銀行で降ろさせ、義父宅に持ってくるように指示するまでになっていた。

その日、私は家にあるキャッシュカードでいつもと同じようにお金を降ろし、その足で家賃を払い、母がいる義父の家にお金を持って行った。

家では、既に母は酔っていた。義父と下のきょうだいもいた。
義父は、家に帰るように諭していたが、優しさからか強引に追い出しはできず、ギャーギャー五月蝿く騒ぎ散らかす母は、そのまま居座っていた。

『家に帰ろう』何十回目かの、私から母への切実なお願い、申し入れ。

『そんなに帰りたければ一人で帰れば』と子どもの願いをはねつける母の言葉、却下。

緒が切れたら、堰を切って溢れるモノ

この時、私は、本当に何かがブチっと切れる音が聞こえた。
心臓が今までにないほどドクドクした。

何度も何度も何度も何度も、母にすがって頼み込んだお願い『夜家を空けないで』、『家に帰ろう』。

それすら、そんな簡単なことすらこの女には届かないのか。
人とは違う家庭環境で惨めな思いをしても、毎日コンビニ弁当でも、ガスもつかず寒く汚い家の中でも、文句を言わずにやってきたのに、これか。これなのか。

瞬間、義父や下のきょうだいの前で、私は、母の顔を引っ叩いていた
買ってきたポテチを粉々に砕き、母の頭の上からかけて、怒鳴り散らした
何を言ったか覚えていないくらい、今まで怒ったことがない私が、自分自身も知らなかったほどの剣幕で


積年のペイバックだった。長年の献身を、こうも何度も裏切られ続けたことへの怒りは、私が思うよりも大きかった。憤怒。
一度溢れると、それは止まらなかった。怒りが怒りを増幅させた。後から後から思い出される我慢の数々が、更に怒りに薪をくべた。

義父も、止めようがなく唖然としていたのを覚えている。
酔った母も泣き喚いた。今まで従順だった私、飼い犬に手を噛まれ気が動転していたのか、単純に痛かったのか。

私は、下ろした金を咄嗟に手にして、一人暗い夜道を家に帰った。
帰り道が暗くて怖かったのに、憤りはそれをも凌駕した。
途中、スーパーでご飯を買い、それから数日、電気やテレビを付けっぱなしにして生活をした。怒り狂った中でも冷静だった。

母が帰ってきたのは数日後だった。
なぜか、義父や、母から話を聞いた祖母から、それぞれ、金を母に渡すように言われた記憶がある。
子どもがお金を持っていると危ないそうだ。

既に、子どもの私が管理した方が、酩酊した女よりきちんと使える状況なのに、なぜだろうかと疑問だった。
『味方はいない』と思った

この頃から、母のことを、親や家族として見なくなっていった。
母には、酒に溺れた邪魔な人、人生の足を引っ張る人のレッテルが貼られた。

一方その頃、母は、更に酒に溺れるようになっていた。(続く)

結局相性

学校生活、結局評価者との相性なのね(遠い目)

小学校4年生
この頃には、そこそこ自分で支度して、一人で学校に通っていた。
初めて男の先生が担任になる。しかも新任。
その先生は、お気に入りの生徒には優しするが、私は優遇されていなかった(と私は感じていた)。
大人の贔屓を子どもは敏感に感じ取る。まぁ私が扱いにくかったのだろう。


だから、私はクラスメイトと先生の悪口を言ってしまっていた。悪手だ。

それが先生にバレ、怒鳴られ、教室で胸ぐらを掴まれ宙に浮いた(殴られてはいない)。

そこで教師に楯突くのは良くないと学んだ。
おそらく、相手からすると私は『男の子男の子』したノリではなく扱いにくかった。
私からすると身近に成人男性がおらず、男のノリがよく分からず、ウマが合わなかったのが原因だと推察。

実際、女の先生は私に優しくしてくれる先生ばかりだった(年配の先生が多く、家庭環境も配慮して接してくれていたと思う)。

複雑な家庭環境から現実を知った気になっていた私は、色々醒めた目で見ていた。
その失敗から、『教師も所詮人間、好き嫌いでエコひいきをする。それに、女は男に、男は女に甘くなるんだな』と悟った(私が悪いのだが)。

悟ったりと思っていたが、私のワガママさや、人の好き嫌いの多さはまだこの時は治っておらず、上手く善い生徒をすることはできないままであった。
頭では分かっても、気持ち的に受け付けず行動に移せないのだ。

小学校5年生
周りの子が塾に通い始めた。中学受験を見据えた、田舎の中では比較的いいところの子。

放課後運動や部活をするわけでもなく、友達も少なく、自分のご飯を買いに行った後にテレビを見る位しかない私は、塾に行きたいとせがんでみた。

生活保護でも通える格安月謝の塾だ(その塾はどう経営していたのだろうかと言うほど、月謝は安かった)。

塾の先生は、男性だったが淡々していてとフラットだった。
勉強を教えることに集中していた。彼の話はよく頭に入ってきた。

その頃までは、中の中くらいの成績だったが、塾に行き始めて、上の下程度には改善された。
この頃の学校の担任は、女性のベテランで色々うまくやれた(というか先生が優しくしてくれた)。

 

デリカシーと疎外感

小学校6年生
あまりこの時期のことは記憶にない。
担任がやや乱暴な性格の男で、やはり女の先生よりも関係構築が難しかった。

『男だが女っぽい生徒』や『家が貧しい生徒』にとって、ざっくりとした男は、デリカシーに欠ける。
そういう先生にとって、ステレオタイプにハマらない、少し気を遣わなければならない家庭環境のガキはやりづらい様に見えた。


デリカシーがないと感じたことと言えば、家に固定電話で携帯電話もなく、緊急連絡先を作れないと相談したとき、大きな声で他のクラスメイトに聞こえるように『電話がないなら、早く伝えてくれ。緊急連絡先にもそう書く』と言われたこと。

金を用意せず、卒業アルバムの購入ができなかったときは、『買わないのはどう言うことこだ、おかしい。買わないなら早く言え』と皆の前で言われたこと(購入する/しないの希望を出した覚えがないが)。

教師も業務で忙しいんだと思う。
ただ、個々の家庭の事情があることを踏まえられず、デリカシーのないタイプは、生活全般に関わる小学校教育には向かないな、と思った。

問題児や不良と呼ばれる子が多く、大人の力を誇示する必要があるクラス以外では、小学生には女の教師の方が向いてるとつくづく思った。
そこそこ経験のある女の先生がよく気が付く、気遣いは優しさだ。

修学旅行、気鬱なイベント
笑って話せるクラスメイトはそこそこいるが、ずっと仲が良いと言い合えるわけではない。それにどちらかというと、女子との方が仲が良かった。

男女で分かれる修学旅行のチーム分けは、自分の嫌われ度(不人気さ)が、可視化される

同じ班になりたい、と思える人も/思ってくれる人もいない。

最後一人アブれて、優しい人たちに拾ってもらう

なんともない顔をして、『グループに入れてくれて、ありがとう』と言うが、声に出せないくらいの屈辱、恥の感情が渦巻く。


旅行中のことは覚えていない。グループの邪魔にならないようにしたし、自由行動のときは、一人で行動した。


一人でいること自体は苦痛ではなかったただ、ある集団の中で、『あの人ひとりでいる』と見られることが嫌で仕方がなかった

ただ、人に合わせることも、自分が無理をする術も知らなかったので、誰に見られてる訳でもないのに、辛くないフリをした。

その頃になると、俗に言われる『おかま』であることは、自分でも分かっていた。クラスメイトから言われることもあった。
自分の生まれの秘密をすんなり聞き流したように、自分の性的嗜好もすんなり受け流した別に自分でどうしようもないことだった

セクシャリティに悩んだこともなかったが、そのままの自分を通すと、孤立して恥ずかしい思いをした。疎外感。

もちろんゲイで女の子と仲が良くても、男女問わず上手くやれる人もいるだろうし、一概にその部分が原因で友達ができなかった訳ではない。それは性的嗜好のせいにしすぎだ。

それに、家庭環境が悪いことが人間関係を構築できない唯一無二の理由でもないと思う。複合しているし、遺伝、環境、それに個人の特性もある。

ただ現実として、そのままの自分では、同年代の子たちから受け入れてもらうことは難しかった。

今になって振り返ってみると、この頃の私は、人の顔色は見るものの、選ぶ言葉や態度が幼く、時としてきつく自分勝手だった。
それは嫌われるよ、、、今も根本的なところは変わっていないけど。

経験を重ねたことで幾分マイルドになったり、逆に自分を出せなくなったりしている部分もある。これが成長なのかもしれない。

自分を出さずにマイルドに誤魔化すのに慣れてきた頃、『ワレガワレガ』タイプが世の中で優秀とされることが多いと知り、絶望。

人とうまくやる方法を今もなお探し続けている。(続く)

ピカピカの1年生、感じる不条理

持っていくものが持っていけない

小学校に上がる前に必要なもの:ランドセル。

ピカピカの1年生にならんとする私の手元には、ランドセルがなかった
ギリギリまでなかった。

近年の言葉で言うと、『ネグレクト』的な状態にあった私は、小学生の当たり前、ランドセルを持たずに小学生になるところだった。
無力な私は『自分はどうなるんだろう、ママ、、、』とぼんやり不安に思うより他なかった。
私の時代は、ランドセル必須、男は黒、女は赤が鉄則、しかも田舎。
学校が始まるすんでのところで、見るに見かねた親戚がランドセルを買ってくれた。
ありがとう、親戚。

そんなこんなで1年生。見た目は薄汚れたピカピカ。
算数セットのおはじきや、時計の教材を覚えている。色鮮やかだった。

例によらず、本人の意に反して、小学校1年時も、休みがちな『不登校』の子として過ごした。
保育園と同様に、母が朝起きないので登校が難しかった。

担任の先生が何回か、母に話しに家まで来た。
もちろん勉強は、クラスの子に比べて遅れていた(家も夜はテレビの明かりだけで暗かったし)。

覚えるべき漢字が書けなかった。書き順は未だに狂っている(デジタル化で書き順どうでもいい時代になって良かった)。

小学校のイベント:運動会(いつだってあまりいい思い出がない)。

お遊戯で着る衣装が各家庭で用意しなければならない、手縫いの衣装で困った。
学校から渡された布を母に渡すも、一向に縫われる様子がない。
練習の時も私だけ着ていなくて、なんともバツが悪い。
『先生がつくろうか?』と言われた頃に、祖母が縫ってなんとかなった。

因みに3年生の頃は、運動会の日にお弁当を作ってもらえず、先生が余分に作ってくれていたお弁当を食べた記憶がある。
あぁ給食ないんだよね、お弁当作ってもらえなかった・・・ただただ恥ずかしかった。

1年生の頃から、子どもながらに、他の家と違う、と言うより『劣っている』と認識し初めた
他の子達(社会)と自分が違う、違うことが恥ずかしい、だから隠さなくてはいけないと思い始めていた。

 

私のデイリーライフ、えらくてしっかり

その頃から、学校から帰ると、1,000円札を握り締め、自分の夕ご飯と母の酒をコンビニに買いに行くようになっていた(おつかいと称した虐待、ちょっとしたヤングケアラー)。

コンビニ弁当やホットスナックを食べていた育ったので、未だに家庭の味や自宅で料理をした物の味と言うものが分かっていない。
朝ごはんを食べる習慣もついていなかった。
コンビニの店主からは『おつかいえらいね』をよく貰っていた。

私の時代は、給食がちゃんとしていたのでなんとか栄養を摂取できていた。
ありがとう、学校給食制度

母は、たまに気分が乗ると、飲みに出かけた
流石に一人置いて行けないのか、私も連れて行った。
今思うと、盛り場に子連れはなんとも興醒め、迷惑極まりない。


店の人も、嫌な顔をしていた気がする。
そんな日の帰り道は、だいたい夜中にタクシー(でなければフラフラした自転車)。
いつも私が、運転手に家までの道のりを案内した。慣れたものだった。
運転手達はいつも『しっかりしてるね』をくれた。

 

不安心、不安全、不安定

小学校低学年の時の記憶、とても不安を感じた2つのエピソード。

夏祭りに母と出掛けた帰り、酒に酔った母は、私を自転車の後ろに乗せたまま横転。
母は流血し病院に運ばれた


夏の暗い待合室で、治療される母を待つ間、泣いていたのを覚えている。

子どもにとってみれば、頼れる大人は母しかおらず、その母が怪我、もしかしたら死んじゃうかもしれない・・・
一緒に側にいてくれる人がいればいいが、隣には誰もいない。

結局、何針か縫っただけで済んだが、その時、この大人は、やはり頼りにならない、心許ない存在だと再確認した。

夏は母の調子がいいようで、別のエピソードもある。
ガスが止まったままの家では、風呂に入れなかったので、よく銭湯に行った。私も銭湯が好きだった。

例によらず、酒に酔った母は、銭湯の閉店時間が過ぎたにも関わらず、『帰らない、まだ入る』と言い出した。
埒が明かず、店主は警察を呼んだ。母と私2人に対して、警察がたくさん来た。
かくして、私は人生で初めてパトカーに乗ることとなる。

こういった場合、母(容疑者)と子(そのツレ)は別々のパトカーに乗せられ、警察署へ連れて行かれることを知った。

私の横には、女性の警察官が乗ってくれ、『大丈夫だよ』と言ってくれたのを覚えている。母が捕まったらどうなるんだろうと心配になった。
その後、酔いが醒めた母と私は、パトカーで家まで送ってもらった。
学校の勉強は追いついてなかったが、したくもない社会勉強は重ねていった

 

ヒステリック金切り声とたまにペシミスト

小学生低学年の頃は、いつも母にヒステリックに怒られていた
キチ○イじみていたし、今思うとほぼそれだった。

木をみて森を見れない神経質な母は、目の前の小さな埃や、家の中のモノの場所が動くのが許せなかった。

家全体を見ると、引っ越した時から荷解きもせず、ゴミが溜まりっぱなしの家だった。
はっきり言ってゴミ屋敷だった。

私はいつもおもちゃの片付けや、ちょっとしたモノの位置の変化について、大きなキーキー声で怒鳴られていた。
よく泣かされていた。泣きすぎて吐いたり、鼻血を出すこともあった。

本人の元々の特性なのか、アルコールのせいなのか、ヒステリーに甲高い声で叱責するのが彼女の特技だった。
嫌で嫌で仕方がなかった。他所のお家でも、親はこんなに怒るものなのだろうか、不思議でならなかった。


怒りが収まらなくなると、『あんたなんか産まなきゃよかった』と言われた

大人になって、世の中の親子喧嘩では、このワードは超絶タブーで、この言葉を浴びせられるケースは稀、1回でも言われるとトラウマになる人がいると知った

『え、そんな普通じゃない?そうなんだ、よく言われてた』と思った。きっと私は一発目で心折れてノックダウン、そこから先は痛みを感じないように蓋をして埋めたんだおろうな。

一通り怒り散らかして、私が泣きやみ、彼女の怒りも落ち着いたころ、酒とタバコを買いに行くことで私の罪は許された。

買い物袋を渡すと優しくなった。

DVとかの手口じゃん。生きるためには、従うより他の方法が私にはわからなかった。

母はヒステリーじゃない時、悲観的で寂しいことを言うことがあった。『私が死んだら、あんたは一人で強く生きていくのよ』的な

『えっ、ママ死ぬの?』と、考えなくてもいい、いつか来る不幸を想起させただただ安心感を奪った。


自分で稼いで暮らせるわけじゃない、助けてくれる人のいない子どもとしては、ただただ耐えるしかなかった
綺麗に片付けられない自分が悪いのだと、思うしかなかった。
母の怒りと悲観で私の感情はコントロールされていた。


あの頃芽生えた『好き』を思い出す

ある日、体育の時間にお腹が痛くなった。
先生に訴えてみたが、体育を続けさせられた。

その夜、お腹に激痛が走り、嘔吐した。
救急車で運ばれ、病院へ搬送された。盲腸だった。

その夜、盲腸を切ることが決まり、研修医が執刀することになった。
全身麻酔もオペも別に怖くはなく、涙を流すこともなかった。

この頃、私は女性ファッション誌を読むのが好きだった。綺麗なもの、華やかなものへの憧れがファッションの方向へ根を伸ばしていた
入院中、唯一涙を流したのは、買わないと反対された雑誌を買って欲しいと頼んだとき。

無事退院した後、雑誌で見て欲しかった香水を買ってもらったのを覚えている(今思えば子どもに無用の贅沢品と批判されると思うが)。嬉しかった。

これは今思うと、ありがたく感じるのだが、
母はネグレクトしてはいたが、私の好きなモノ、興味のあるモノを特に否定はしなかった。

金はなかったので積極的に後押し、と言うこともなかったが、気分が良い時はご褒美を買ってくれた(到底その年齢の男子に必要のない雑誌等も買ってくれることもあった)。

『男らしく』強制することも、そういった価値観を押し付けることもなかった。
だから今、自分の嗜好に対して『悪いもの』とか『親に申し訳ない』とか感じずに済んでいる。特に嗜好を伝えてはいないが。
なんなら、幼少期から母に『オカマバー(ゲイバーではない)』に連れられることもあった。

私自身について思うと、綺麗なモノへの憧れや、ファッションへの関心は誰から勧められて持つに至ったモノではない
親や周りを考えて、遺伝的、環境的なものでもないとすると、この部分はそれらに依らず、自分自身から芽生えたモノだったのかもしれない。

なかなか興味関心って、自分自身で好きになったと思っていても、遺伝や環境に左右されるところがある。

今の所、その道に進んではいないのだが、その芽を信じて水や肥料をやることを自分に許してあげてもよかった。

生活と勘案して、その道を選び切れないという『好き』の度合いを見て、その程度で揺れるなら無理と冷たく突き放したメタな自分。もっと好きに自信を持っても良いと思う。(続く)