スピカのなんとか生きる日記

30代、男、ゲイ、毒親育ち、現在無職のなんとか生きる日記

ピカピカの1年生、感じる不条理

持っていくものが持っていけない

小学校に上がる前に必要なもの:ランドセル。

ピカピカの1年生にならんとする私の手元には、ランドセルがなかった
ギリギリまでなかった。

近年の言葉で言うと、『ネグレクト』的な状態にあった私は、小学生の当たり前、ランドセルを持たずに小学生になるところだった。
無力な私は『自分はどうなるんだろう、ママ、、、』とぼんやり不安に思うより他なかった。
私の時代は、ランドセル必須、男は黒、女は赤が鉄則、しかも田舎。
学校が始まるすんでのところで、見るに見かねた親戚がランドセルを買ってくれた。
ありがとう、親戚。

そんなこんなで1年生。見た目は薄汚れたピカピカ。
算数セットのおはじきや、時計の教材を覚えている。色鮮やかだった。

例によらず、本人の意に反して、小学校1年時も、休みがちな『不登校』の子として過ごした。
保育園と同様に、母が朝起きないので登校が難しかった。

担任の先生が何回か、母に話しに家まで来た。
もちろん勉強は、クラスの子に比べて遅れていた(家も夜はテレビの明かりだけで暗かったし)。

覚えるべき漢字が書けなかった。書き順は未だに狂っている(デジタル化で書き順どうでもいい時代になって良かった)。

小学校のイベント:運動会(いつだってあまりいい思い出がない)。

お遊戯で着る衣装が各家庭で用意しなければならない、手縫いの衣装で困った。
学校から渡された布を母に渡すも、一向に縫われる様子がない。
練習の時も私だけ着ていなくて、なんともバツが悪い。
『先生がつくろうか?』と言われた頃に、祖母が縫ってなんとかなった。

因みに3年生の頃は、運動会の日にお弁当を作ってもらえず、先生が余分に作ってくれていたお弁当を食べた記憶がある。
あぁ給食ないんだよね、お弁当作ってもらえなかった・・・ただただ恥ずかしかった。

1年生の頃から、子どもながらに、他の家と違う、と言うより『劣っている』と認識し初めた
他の子達(社会)と自分が違う、違うことが恥ずかしい、だから隠さなくてはいけないと思い始めていた。

 

私のデイリーライフ、えらくてしっかり

その頃から、学校から帰ると、1,000円札を握り締め、自分の夕ご飯と母の酒をコンビニに買いに行くようになっていた(おつかいと称した虐待、ちょっとしたヤングケアラー)。

コンビニ弁当やホットスナックを食べていた育ったので、未だに家庭の味や自宅で料理をした物の味と言うものが分かっていない。
朝ごはんを食べる習慣もついていなかった。
コンビニの店主からは『おつかいえらいね』をよく貰っていた。

私の時代は、給食がちゃんとしていたのでなんとか栄養を摂取できていた。
ありがとう、学校給食制度

母は、たまに気分が乗ると、飲みに出かけた
流石に一人置いて行けないのか、私も連れて行った。
今思うと、盛り場に子連れはなんとも興醒め、迷惑極まりない。


店の人も、嫌な顔をしていた気がする。
そんな日の帰り道は、だいたい夜中にタクシー(でなければフラフラした自転車)。
いつも私が、運転手に家までの道のりを案内した。慣れたものだった。
運転手達はいつも『しっかりしてるね』をくれた。

 

不安心、不安全、不安定

小学校低学年の時の記憶、とても不安を感じた2つのエピソード。

夏祭りに母と出掛けた帰り、酒に酔った母は、私を自転車の後ろに乗せたまま横転。
母は流血し病院に運ばれた


夏の暗い待合室で、治療される母を待つ間、泣いていたのを覚えている。

子どもにとってみれば、頼れる大人は母しかおらず、その母が怪我、もしかしたら死んじゃうかもしれない・・・
一緒に側にいてくれる人がいればいいが、隣には誰もいない。

結局、何針か縫っただけで済んだが、その時、この大人は、やはり頼りにならない、心許ない存在だと再確認した。

夏は母の調子がいいようで、別のエピソードもある。
ガスが止まったままの家では、風呂に入れなかったので、よく銭湯に行った。私も銭湯が好きだった。

例によらず、酒に酔った母は、銭湯の閉店時間が過ぎたにも関わらず、『帰らない、まだ入る』と言い出した。
埒が明かず、店主は警察を呼んだ。母と私2人に対して、警察がたくさん来た。
かくして、私は人生で初めてパトカーに乗ることとなる。

こういった場合、母(容疑者)と子(そのツレ)は別々のパトカーに乗せられ、警察署へ連れて行かれることを知った。

私の横には、女性の警察官が乗ってくれ、『大丈夫だよ』と言ってくれたのを覚えている。母が捕まったらどうなるんだろうと心配になった。
その後、酔いが醒めた母と私は、パトカーで家まで送ってもらった。
学校の勉強は追いついてなかったが、したくもない社会勉強は重ねていった

 

ヒステリック金切り声とたまにペシミスト

小学生低学年の頃は、いつも母にヒステリックに怒られていた
キチ○イじみていたし、今思うとほぼそれだった。

木をみて森を見れない神経質な母は、目の前の小さな埃や、家の中のモノの場所が動くのが許せなかった。

家全体を見ると、引っ越した時から荷解きもせず、ゴミが溜まりっぱなしの家だった。
はっきり言ってゴミ屋敷だった。

私はいつもおもちゃの片付けや、ちょっとしたモノの位置の変化について、大きなキーキー声で怒鳴られていた。
よく泣かされていた。泣きすぎて吐いたり、鼻血を出すこともあった。

本人の元々の特性なのか、アルコールのせいなのか、ヒステリーに甲高い声で叱責するのが彼女の特技だった。
嫌で嫌で仕方がなかった。他所のお家でも、親はこんなに怒るものなのだろうか、不思議でならなかった。


怒りが収まらなくなると、『あんたなんか産まなきゃよかった』と言われた

大人になって、世の中の親子喧嘩では、このワードは超絶タブーで、この言葉を浴びせられるケースは稀、1回でも言われるとトラウマになる人がいると知った

『え、そんな普通じゃない?そうなんだ、よく言われてた』と思った。きっと私は一発目で心折れてノックダウン、そこから先は痛みを感じないように蓋をして埋めたんだおろうな。

一通り怒り散らかして、私が泣きやみ、彼女の怒りも落ち着いたころ、酒とタバコを買いに行くことで私の罪は許された。

買い物袋を渡すと優しくなった。

DVとかの手口じゃん。生きるためには、従うより他の方法が私にはわからなかった。

母はヒステリーじゃない時、悲観的で寂しいことを言うことがあった。『私が死んだら、あんたは一人で強く生きていくのよ』的な

『えっ、ママ死ぬの?』と、考えなくてもいい、いつか来る不幸を想起させただただ安心感を奪った。


自分で稼いで暮らせるわけじゃない、助けてくれる人のいない子どもとしては、ただただ耐えるしかなかった
綺麗に片付けられない自分が悪いのだと、思うしかなかった。
母の怒りと悲観で私の感情はコントロールされていた。


あの頃芽生えた『好き』を思い出す

ある日、体育の時間にお腹が痛くなった。
先生に訴えてみたが、体育を続けさせられた。

その夜、お腹に激痛が走り、嘔吐した。
救急車で運ばれ、病院へ搬送された。盲腸だった。

その夜、盲腸を切ることが決まり、研修医が執刀することになった。
全身麻酔もオペも別に怖くはなく、涙を流すこともなかった。

この頃、私は女性ファッション誌を読むのが好きだった。綺麗なもの、華やかなものへの憧れがファッションの方向へ根を伸ばしていた
入院中、唯一涙を流したのは、買わないと反対された雑誌を買って欲しいと頼んだとき。

無事退院した後、雑誌で見て欲しかった香水を買ってもらったのを覚えている(今思えば子どもに無用の贅沢品と批判されると思うが)。嬉しかった。

これは今思うと、ありがたく感じるのだが、
母はネグレクトしてはいたが、私の好きなモノ、興味のあるモノを特に否定はしなかった。

金はなかったので積極的に後押し、と言うこともなかったが、気分が良い時はご褒美を買ってくれた(到底その年齢の男子に必要のない雑誌等も買ってくれることもあった)。

『男らしく』強制することも、そういった価値観を押し付けることもなかった。
だから今、自分の嗜好に対して『悪いもの』とか『親に申し訳ない』とか感じずに済んでいる。特に嗜好を伝えてはいないが。
なんなら、幼少期から母に『オカマバー(ゲイバーではない)』に連れられることもあった。

私自身について思うと、綺麗なモノへの憧れや、ファッションへの関心は誰から勧められて持つに至ったモノではない
親や周りを考えて、遺伝的、環境的なものでもないとすると、この部分はそれらに依らず、自分自身から芽生えたモノだったのかもしれない。

なかなか興味関心って、自分自身で好きになったと思っていても、遺伝や環境に左右されるところがある。

今の所、その道に進んではいないのだが、その芽を信じて水や肥料をやることを自分に許してあげてもよかった。

生活と勘案して、その道を選び切れないという『好き』の度合いを見て、その程度で揺れるなら無理と冷たく突き放したメタな自分。もっと好きに自信を持っても良いと思う。(続く)