スピカのなんとか生きる日記

30代、男、ゲイ、毒親育ち、現在無職のなんとか生きる日記

貧乏長屋と砂糖時代

暗くて寒い冬

義父との離婚を機に、母と私は母の実家近くに引っ越しをした
貧乏長屋、同じ建屋が並ぶドブ川沿いの家。
灰色のトタンでできたその家々に住まう人々は、低所得者が多かった。
川を挟んで向こう岸の家々は、豪邸が並び田舎ながらに富める者とそうでない者の対比が鮮やかだった。

母は、働き口を見つける様子もなく、毎日酒を飲んでいた。
義父との結婚生活が破綻する頃から、酒に逃げていたらしい。

子ども一人連れて、どう生きていくつもりだったのだろうか。
『何とかなるさ』のポジティヴィティを持ち合わせていたのか、どこかで行き詰まれば無理心中でもしたのか。

その頃私は、コンビニ弁当を主食に生きていた。
母は酒を飲み、昼間は寝て夜に一緒にコンビニに行き、酒とご飯を買う。

生来、変なところに神経質な母は、家の埃を見たくない、暗いのが好きということで、夜も電気をつけなかった
なので私は、テレビの明かりを頼りに、テーブルがなかったので寝ながら弁当を食べていた。
案外寝ながらでも、ご飯は食べれるのである。

 

ライフライン=生命線

それも続くこと数ヶ月、徐々に金も底をついてくる。

しかも、寒い冬の時期であった。

まず、ガスが止められ、お風呂に入ることができなくなった。
料理はそもそもしないので、餌としてコンビニ弁当を与えられていた私的には問題なかった。
が、お風呂が好きな私には只々悲しかった。お風呂でぽかぽかしたかった。

次に、電気が止まった
照明はつけないが、テレビがつかないので、真っ暗である。
暖房器具はもとよりなかったが、寒い冬に暗い中で腹を空かせてひもじい思いをするのは幼いながら堪えた。

最後に、水道が止まった
今考えると、ライフラインの中でも水道が止まることは最後の最後。
支払いを多少遅延しても止めないものだが、実際に止まった。

水も出ないので、夜遅くに、近くの公園の水道からやかんに水を入れて家に持って帰っていた。私も母と一緒に水を汲みに行った。
人に見つからないようにこっそり、ひっそりと。

ライフラインが止まるということは、金がないということ。
当然合わせて食料難にも陥ることとなる

 

砂糖を舐めて凌いだ時代『砂糖時代』

最初のうちは、電気コンロで作った即席麺などを食べていたが、電気も止まり、家に残る紙カップに入った苺ジャムを舐めたりした。
それもなくなった頃には、砂糖を舐めて過ごしたことを覚えている。水と砂糖で凌ぐ。

途中途中で、祖母の家に行き、ご飯を食べさせてもらっていたと思う。
が、そもそも祖母と母の折り合いが悪く、且つ酒に酔った母を嫌い、祖母が母を家に寄せ付けなかった。

母が人から嫌われば嫌われる分、私は、割りを食っていた
母が喧嘩をすると、ありつけるはずの同情にありつけず、結果お腹を空かせていた。

その当時、母に『お腹が空いた』というと、
母からは『寝ればお腹が空かないから、寝なさい』と怒るように言われていたのを覚えている。
嫌な記憶である。もしかすると、彼女なりのサバイバル方法だったのかも知れないが。

いけないことだが、最貧困時代の終盤、母は道端の良心市から野菜を取ったり、人の畑の大根の葉の部分だけを刈り取ったりしていたのを覚えている。

拝借した後は、両手を合わせて、何やら念仏のようなものを唱え、神に贖罪していた。
信心深い女性だ。

この貧しい冬を越え、自分の中で笑い飛ばせる余裕が生まれた頃、私はこの時期を『砂糖時代』と名付けて、母や親戚と笑った。
悲しい過去も後で笑って成仏させてあげる、自分でできるちょっとした救済。

 

メリークリスマス〜お慈悲〜

この頃のクリスマスは嫌な思い出がたくさんある。

とても寒い夜。
母に連れられ、祖母の家に金を借りに行ったが、取り合ってもらえず。
玄関にすら入れてもらえなかった。

母は必死に外から祖母を呼びかけるが、相手にされず。

なぜ祖母がここまで厳しいかと言うと、自分勝手な言動を繰り返し祖母を怒らせ続けていたからだ。

母は、私の上のきょうだいを祖母に預け、いざこざの末に私を出産。
その後、デキ婚で下のきょうだいを出産そして離婚。
そして今は酒に溺れる始末である。

それには母を産んで育てた祖母も愛想が尽き果てるだろう。

暗い寒い夜、ひもじい気分でそれを横目でみていた私。
幼いながらに、『母が真っ当な大人ではない』ことは理解していた。

遂には金を借りることはできなかった。
見かねた親戚が、裏口からこっそり家に入れてくれ、20センチ以上はあるサンタクロースの形をしたとてつもなく巨大なチョコレートを分けてくれた。
会社で貰った外国のお土産らしかった。


砂糖の入っていないビターな味を覚えている。
サンタの頭を食べた。味覚が記憶している。


人生割と今でもビター。教訓の味。
未だに私は甘々な人生を夢見続けている。

同じ年のクリスマス、また嫌な思いをした。
祖母らが、クリスマスにデパートに行くということで、私も連れて行ってくれることとなった(祖母と暮らしていた上のきょうだいも一緒に)。

お金もなく、ひもじかった私は、デパートに行けるのをワクワクして待っていた、指折り数えて。
子どもなら当然である。子どもの頃のクリスマスは、歳を取った今とは違い夢があった。
町中がキラキラしていて、ソックスにプレゼント、美味しい料理にあったかい部屋。
何でも夢が叶いそうな魔法のシーズン。

しかし、デパートに行く日の昼、母は私を起こしもせず、身支度も整えていなかった。そう、私はその時期、貧しく不衛生な身なりをしていた。
祖母が迎えにきた段で、祖母は母に私の身支度をきちんとするように言うが、寝ている母は機嫌が悪く祖母と口論になる。

こういう時の母は、絶対に譲らないし、ただただ怒り散らして叫ぶだけになる。
遂には、『デパートに連れて行かなくていい』とまで言う始末。

これを聞いた私は、深く失望した。あれほど楽しみにしていたのに、いとも簡単に、自分のせいではなく、彼女の機嫌で『楽しみ』を潰されるのだ

流石に、可哀想と思い祖母達は、寝ている母の目を盗み、私を連れ出してくれた。結果としては、おでかけできたのだが、『母から禁止され』『母に内緒で』『祝福されず』に外出したので、悪いことをしているような状態で、楽しみきれなかった。

子どもの自分ではどうしようもない、無力感
小さい時のクリスマスの思い出と聞かれると、このエピソードが強烈で、他の幸せだったであろうクリスマスのことを思い出せない。

 

顔色とか遠慮とか

私の目の前で母が誰かと喧嘩をする度に、母はもちろんその喧嘩相手の顔色も伺うようになっていった。

『空気を読む』、と言うか『顔色を伺う』癖がついたのはこの頃からかも知れない。

私はよく、母以外の周りの大人から『欲しいなら欲しいと言いなさい』と言われていた
欲しそうだが、自分の口では『欲しい』と言わない、言えない

そういう時は『わからない』と答えては、大人たちを苛立たせた
欲望に蓋をする遠慮がちな子に仕上がりつつあった。
欲しいといって母や大人を困らせたり、それで揉めたりされては、結局自分が気を遣って辛いから『わからない』といってお茶を濁していた。

この生きるために染みついた悪癖は、歳を取って捨てたくなった今でもなかなか、消えていってはくれない。
純粋な瞳で『欲しいものを欲しい』と言える人が、人から愛され、欲しいものを手に入れていくという厳しい現実を、大人になって初めて知って絶望をするのは後の話。

三つ子の魂百までか、長いな。

 

お役所通い

同時期に、母とよく市役所へ行った。
食べるものもなく、ひもじいながら、自転車の後ろに乗せられて。
事務的であまり楽しくなさそうな雰囲気の市役所へ。


これは生活保護の申請をするためであった。


市役所の奥の方にある部署に行き、たまに個室に通された。

若い男の担当者と話をし、何もなく帰ることが数回あった。
生活保護の申請を拒絶されたのだ。

幼い私から見ても、母に対してなんだか偉そうな若い男の担当者だったのを覚えている(申請は複数回は拒絶するように上から言われていたのだと思う)。
未だに名前と顔を覚えている。

何度か通い、その男の上司のような、歳を取った男が出てきて、生活保護の申請が通った。
無力の子どもの命がなんとか繋がれた。

 

転校生は変わった子

それから程なくして、近くの保育園に通えることとなった。
セーラームーン』好きで、なぜか当時おかっぱ頭だった私は、入園早々、他の園児から奇異の目で見られることとなる
『女なのか?』とよく聞かれたが、保育園生活を通してそこまでのひどいいじめはなかった。

この頃は、幼かったので、誰が好きとか、性的嗜好がどうとかこうとかは考えていなかった。

あと別に、綺麗なものが好きで、女の子と『おままごと』をして遊ぶ自分がおかしいと思うこともなかった。

今思うと、ゲイであるとか、どういうものなのか全く知らない状態なのに、『ゲイ好き』するセンスを持っていた。習っていないのに、不思議だ。

私としては、孤児院以来久々の子供社会への参加となるが、これも長くは続かなかった。
母のアルコールへの依存はますます強くなるばかりで、私を保育園へ送り迎えることをいつしか辞めてしまった

なので、ほとんど保育園には通えず、風変わりなおかっぱの男の子が、子供の社会ルールを覚えることは叶わなかった。
月一で保育園から届く絵本だけが溜まって行った。

ただ、生活保護のおかげで、一応のご飯は食べれるようになり、餓死しなくて済んだこれは今も感謝している。ありがとう税金を納めてくれる方々

生活保護批判する人の気持ちもわかるが、保護されたおかげで何とか生き延びれた人も確かにいるよ。

程なくして、小学校へ上がる年齢になる。(続く)