スピカのなんとか生きる日記

30代、男、ゲイ、毒親育ち、現在無職のなんとか生きる日記

非力な子どものための家〜maison des enfants〜

前にいた孤児院から、18歳まで面倒を見てくれる児童養護施設に移った。
同い年くらいの小さい子ばかりがいて、手を焼いてくれる先生の元で遊んでいた孤児院を移り、年の離れた子どもたちの、社会規律がある生活を求められるところに。

もちろん先生は優しくしてくれたかと思う(覚えていない)。
ただ、前の孤児院が甘やかしてくれた分、住んでいる子どもの数も年齢も幅広い、新しい施設では、先生と子どもがべったりというわけにはいかなかった。
それは当然なことだと思う、が子どもの私にはひどく冷たい環境に感じられた。


適応力、低めの私

ここで覚えているのは、
年上の先輩に意地悪をされてショックだったこと。
人間が生きる上で、辛いことに、嫌な記憶は鮮明に止まり続ける。
楽しい思い出だけで生きていければいいのだが

夜、消灯後に何故か寂しくなって泣いてしまい、小学生の先輩らに、押入れに閉じ込められたこと。
先輩としても私がうるさかったのであろう。押入れに閉じ込められる以外にも、その先輩らから意地悪をされた記憶が残っている。

ただ、夜中にいきなり鼻血を出したときに、一緒に止めてくれたのも彼らだった。
未だに彼らの苗字を覚えている。

もちろん、恨んでなんかはいない。
遠い昔の、自分自身が思い出せる唯一のその時期の出来事として、何だか寂しく、そして懐かしく思うだけだ。

この孤児院にも、母は面会に来ていた。
きっと他の子たちの親はそうは面会に来ていなかったのだと思う。

そりゃ、彼らは、母を思って夜中にビービー泣く新入りの幼児を、うるさく、疎ましく思うのも無理はないと今ならわかる。
私だって夜寝てるときに泣かれたらうるさいと苛立つし、親の影がチラつくのは精神的にくる。

他の子のメンタルを考えるなら、施設に預けた子に会いに来るのは、酷なことだ。
考えものである。

この頃の記憶は、薄ぼけていて、はっきり覚えてない。写真も残っていない。
にもかかわらず、親の帰り際の寂しさと、環境が変わり年上の子どもたちとうまくやれていなかった不安は強烈に頭に焼き付いている。

幼いながらに、初めて年の離れた子どものいる社会に入り、わがままばかりでは生きていけない、ここで生きるには耐える必要性があると感じ始めたのかも知れない。

合わせなきゃ、我慢しなきゃ、耐えなきゃ』本能的にそう感じていた。
本来感じなくていいストレスは、子どもの心を少しづつすり減らしていった

 

孤児院育ち

施設で育つ子どもたちのことを思うと、『なぜ自分は普通じゃない状況なのか』、『周りから違う目で見られる』と悩む日々に負けそうになる時もあるのだろうと思う。
私よりもずっとずっと。

自分のせいじゃないのに、『人生が上手くいかない』、『他の人よりもスタート地点が低くハンデを負っている』とめげたこともあると思う。

他の子が受ける愛情を自分は得られないと理解し、我慢も多くしてきたと思う。
愛情だけじゃなく、教育や娯楽だってハナから諦めて生きていかないと、心が潰れてしまうと身をもって学んできたのだろう。

怒り、悲しみ、鬱憤、誰彼構わず当たり散らして、泣き喚いたりして発散したい。
けど『先生たちも一生懸命やってくれてるから』、とぶつけられずに消化不良になった、飲み込んだ思いもあるのだろう。
無理に物分かりが良くなって、押し込めたりして。

想像すると辛くなる。

どうか、どうか、今は彼らがそんな過去に縛られず、平穏に、幸せに生きてくれればと、小さな祈りを捧げる。


子どものロジスティクス

『子どもって非力』改めて、子ども時代を思い出すとその一言に尽きる。
大人の都合で右に左に動かされるしかない。
何も自分で選べるものなんてない。金を対価に捨てられ、あっちこっちへ移され。

母と面会をしながら、施設暮らし。
夜は寂しく泣くという生活を繰り返した。
そんな中、母にターニングポイントが訪れ、私は遂に引き取られることとなる。私にとって、幸せだが不幸で、嬉しいが辛い、生活が始まることとなる。

荷物みたいに、あっちゃこっちゃへころころ投げ飛ばされる。
無戦略なロジスティクス。(続く)