スピカのなんとか生きる日記

30代、男、ゲイ、毒親育ち、現在無職のなんとか生きる日記

孤児院で受けた庇護、愛情

生まれて半年程度、乳も離れない頃、私は孤児院へ預けられた。
朧げな幼少期の記憶の始まり、思い出せる一番昔の記憶は、孤児院にいた頃の記憶。


先生ありがとう

最初に担当してくれた先生は若くて優しい女の先生だった。
でもなぜか私は、別の子どもの担当をしていた先生にひどく懐いたらしい。
あまりに慕うので、その先生が担当を変わってくれたと聞いている。
その先生と私は、どことなく顔が似ている
未だに先生とは、年賀状などのやり取りをさせてもらっている、所謂恩師である。
生まれてから2歳くらいまでの子どもにとって、一緒にいてくれる人への愛着は、大人になっても続くのかも知れない。
言葉も話せない時期に庇護された記憶や安心感はいつまでも残る。


確かに注がれた愛情

孤児院では、お遊戯、お昼寝、水遊びをした。
先生や子どもたちと公園へ行ったり、海へ行ったりもした。
雛祭、端午の節句やお餅つきと季節の行事は色々経験させてくれていたようだ。

私の小さい頃の写真のほとんどは、この頃のものだ。
この施設を出て以降、写真があまり残っていない、撮れる環境になかった。

唯一残っているこの頃の写真は、アルバム1冊分。
裏には、日付と何をしたかを書いてくれている。将来見返したときのために。

後、その時描いたお絵描き数点も残っていて、これも裏にメモを残してくれている。
歌って、踊るのが好きで、鬼とアンパンマンが好きだったようだ。

アルバムを見ると、よく頬を膨らまし、腕を組み怒っている写真が残っている。
幼い頃の気質を見るに、本質的に私は怒りっぽいのかも知れないと気づく。

ブログを書くにあたって、久方ぶりに写真を眺めていると、『一緒に写ってる同年代の子たちどうしてるかな、幸せになってくれてる』といいなとぼんやり願う気持ちになった。

 

里心は毒

私が孤児院で生活をしている中、母は、頻繁に面会に来ていた。
本来の示談内容としては、私と会ってはならないはずではあるが、
来ていた。嬉しい反面、切ない記憶として頭に残っている。

別れ際に、母と別れたくなくて、『ママ』と言いながら、泣いて別れる瞬間のイメージ。
後で聞いた話だが、私は乳児期に、子どもに恵まれなかった夫妻から養子の話をもらっていたそうだ。

優しく、いいご夫妻だったそうだが、母が諦めきれずに断ったそうだ(へぇ、一応預け元の親に拒否権あるんだ)。

養子に貰われた世界線、それはそれで夫妻が素敵だったら素敵な分、実の親ではないということを後々知り、葛藤することになったんだろうな(どちらがベターということもなく、ましてはベストは分からないし、IFはないけど)。
結果として、後に母と生活することになる。

ただ、孤児院で生きる子どもにとって、半端に親が会いにくることは、『したくはないであろう親離れ』が、余計に出来なくなる。
やめた方がいいのだろうな、と今になって思う。
勝手に産んで、勝手に捨てて、勝手に里心をつけるだけだから。里心は毒だ。


優しい時間はすぐに過ぎ去る

住んでいた孤児院は乳幼児専門の施設だった。
少し成長した私は、別の孤児院に移ることとなる。移った時の記憶は私にはない。
離れることとなる最初の孤児院の記憶は、良いものとして残っている。
楽しく、先生に甘えられ、愛された記憶。

預けられた乳幼児に手間暇をかけて、じっくりと愛情を注いでくれる施設だったと思う。
新しく移った後孤児院。今までとは違って年の離れた子どもたちがいて、その社会に溶け込めず不安な気持ちを抱えていた記憶が、ほろ苦く残っている。(続く)