聞かないで、『あなたはどんな人ですか?』
大学3年生、就活、就活、就活、不況に地震
就活。
先延ばし先延ばしにしていた、『やりたいこと』を明確にしなければならなかった。
しかも、自分の中で確立させるだけではなく、『会社』に向かってそれをアピールしなければならないらしい。
何それ、怖い。逃げたくてたまらない。
リーマンショッッッック!!!!
周りや世の中の動きを見るに、何やら相当買い手市場で、就職状況は全く芳しくないとのことだった(翌年は更に酷かったようだ)。
『え、先輩たちは、好景気もあって割と良いところに就職できたと聞いていたのに・・・』
ゲラゲラ笑える日々は束の間、すぐにピンチがやってきた。
自己分析、自己分析、自己分析。
学校も就活セミナーもうるさいくらい自己分析を求めてきた。
自分を掘ってみたとして、自分が底の浅い人間であることが既に見えていた。
豊かな『私』が花を咲かせ実をつけるには、土や恵みの雨、見守る生産者という環境が必要なのだ。
就活を始める前から負け戦にいく気持ち、どんより。
都会でやってる就活フェスとやらにも行った。
学歴フィルターやら、就活サイトの入学実績大学を見て、気を落とすばかりだった。
『多くを望むな、足るを知れ。お前はそんなに高みには行けない。』と現実を見せつけられた。
あぁ、過去の私が努力をしていなかったばっかりに、今の私が苦しんでいる。
努力も遺伝子も全部ダメな負け組・・・
ネガティヴィティの洪水、止めどないマイナス思考の連鎖。
その中でも、田舎にいては職がないと思い、都市部で就職活動をした。数打ちゃ当たるだろうと願った。
私は昔から都会への憧れが強かった。ファッション、グルメ、摩天楼、電車、人の多さ、出会い、会社の多さ、コンサートや美術館。田舎にないもの全部があって、キラキラしていると思っていた。1年中クリスマスみたいな。
それに、ゲイにとっては田舎は住みにくかった。
田舎のゲイには結婚をしてゲイ活動をする人も多い。人口も少ないので出会いはなかった。私の知っている人は割と結婚して子どももいる人が多かった。
同性同士、逢瀬する度に後ろめたさ、不貞。いつも後ろに妻と子どもがちらつく。
生きづら。
都会での就職活動にこんなに金とパワーがかかるとは思っていなかった。
都会へ行くための交通費、宿泊費、食費。面接と面接の合間のカフェ代。1回の滞在で効率よく入らない説明会、面接。
説明会に行くだけで、日に日に減っていく貯金。休みが増えていくバイト。
耐え抜いて生きたことは、『頑張り』ではない
エントリーシートを書くと、自分の人生の薄っぺらさがまざまざと可視化された。
人と比較されて、選ばれるためには、個性が貧弱で何もやってない。
華やかな経験が何一つなかった。
それをカバーできる学歴もなかった。かと言って、人柄で売っていこうにも、人から好かれる愛嬌も持ち合わせてない。
耐えたくもないことを我慢してきたばかりの人生。
この商品をどうアピールすれば良いのか分からず途方に暮れた。
一度悩んで、教授に『学費の工面を頑張ったこと』にできるか聞いてみたが、『そんな人はいくらでもいるし、そんなことを書くのではない』と冷静に返された。正論だね。
『じゃあ何を書けば・・・』更に光が見えなくなった。
今考えれば、世の中の就活というシステムが、『苦学したこと』をアピールポイントとして到底見做さないことは重々分かる。
が、私にはそれしかなかった。そんなことも分からず質問をしてしまった自分が恥ずかしくなった。
虐待されたり、毒親に苦しんだり、ヤングケアラーだったり。
孤児院で育ったり、ときには病気を患ったり、障害をもったり。
そういう自分の力ではどうしようもない、子どもの力ではどうしようもない不可抗力を頑張って耐えても生き延びても、人は、企業は、社会は、それを『頑張ってきたこと』として認めない。
そんなことは頑張ったことにはカウントしない。
『勉強、運動、学外活動、海外経験、受賞歴』、金や周りのサポートを得て結実するものしか努力とは呼ばない。
それを跳ね返して、『運によって生まれながら裕福だったり、家庭環境が良かったりする人』を超えなければ評価されない。
マイナスからスタートした人間は要らない。
家庭環境が良い子女を採用します、と言う社会の遠回しな意思表示。
どうしようもない無力感。
ここで負けてはならないとはわかるが、心はへし折られた。
人は圧倒的な無力感を植え付けられると、立ち上がることができなくなる。
それでもなんとか、ゼミやバイトから学生時代に頑張ったことを絞り出して、アピールポイントとすることにした。
やはり現実は厳しいぜ〜貧困子どもの体験格差〜
やはり、面接で更に厳しい現実を知ることとなった。
特に、集団面接の場で。
周りのアピールポイントが私の比ではなく遥かに高尚で素晴らしいのだ。
『海外留学や生まれた時からの海外経験』、『子どもの頃からやっていたスポーツや芸術、音楽活動での表彰歴』、『起業や投資経験』、『NPO立上げやボランティア活動』等々枚挙にいとまがない。
それに皆、バイトやサークルのリーダーを兼務しているらしい。
今で言う『ガクチカ』、学生時代に力を入れてきたことだ。
あぁ、勝てる要素がない。
海外は当然国内旅行にも行ったことがないし、塾は辛うじてあるがそれ以外の習い事をしたことはない。金のかかることは避けてきた。
『体験格差』、最近になって名前がつけられた格差。
まさにそれだった。就活の面接で、人と差をつける華やかでよく刺さる武器は、いかに丁寧に金をかけて育てられたかに繋がっていた(もちろんそれだけなく本人の努力もあるが、傾向としては大きいと感じた)。
『ガクチカ』は、いかに生活の根本をを脅かされずに、運や環境に恵まれて暖かく育ち、衣食住以外の『余剰なこと』をどれほど人生で経験したかで決まる。
就活は、そういう『余剰』の発表会。
だがそれでもなんとか、次のステップに進める企業もあった。
しかし、アピールポイントが弱いのか、人間的に魅力がないのか、会社とのマッチ度が低いのか、悉くお祈りされた。
田舎の名の知れぬ大学の子が都会で就活をするのは、なかなか厳しかった。
地元で就活をする周りの子には徐々に内定が出始めていた。
選考が進んでは落とされ、手持ちを増やしては減るにつれ、どんどん自分が否定されているような気がして、心が落ち込んできた。
それでも笑顔を作って面接を受け続けた。
第一志望の会社の最終面接では、薄汚れたメガネの人事が『今年は例年はウチを受けない東大や京大の人も受けてるけど、君何か勝てるところある?』と嫌味に聞かれた。
よくある圧迫面接だとは思うが、無い見栄は張れなかった。
心折れかけていた私は『勝てるところはないとは思いますが、一生懸命勝てるよう頑張ります』としか言えなかった。
もちろん落ちた。
自尊心はすり減り、貯金も減ったころ、ある会社が拾ってくれた。有難い。
大企業のグループ会社だった。
捨てる神あれば、拾う神あり。
私は田舎から出られる切符を手に入れた。
友達には就職のために留年する子もいた。私にはそれはできない状況だった。
関心を見つける力欠如、卒論
大学4年生。
大学4年生の春以降、地獄の就活からようやく解放され、ゼミやバイトの友達と遊んだ。
卒業旅行にも行った。海外旅行に行く友達もいたが、金銭的に難しかったので、私が行く旅行は国内にしてもらった。
卒業論文。
あなたは何に関心があり、何をどう調べますか?と問われる。
就活に続き、私が問われる。テーマを決めるのが辛くて、焦りばかりを感じていた。
小中学校の自由学習の発展系。苦手だ。
自発的に、私のどこかから、好奇心や興味の泉が湧いてくることはなかった。
就職活動で味わった敗北感や劣等感は正しかった。社会で求められているとされる、自発性や創造性が私には圧倒的に足りていなかった。欠如していた。
これは、幼い頃から『欲しいものを欲しい』と言わない、言えない状況で生きてきたから、自分が好きなもの、欲しいものが自分でよく分からなくなってしまった弊害だと思う。
『あなたはどうしたい?』『あなたはどんな人?』は問われると怖い。
どうしたくとも、どんな人でありたくとも、その意思が届くことはなかった。
ただ辛いことが早く過ぎ去ればいいと思いながら、我慢してればいいと思って生きてきたから。
とは言え、卒論を提出しないと折角決まった就職がワヤになるので、卒業するためにも絞り出したのが、就職する業界に関する研究だった。
大学に入って、ほぼ初めての調べもの。研究とは言えないレベルの。
4年間通して、私は大学を『自分で進んで学ぶ』と言うよりも『就職するためのライセンス』としか認識できていなかった。
大卒資格という目的は達成したが、薄っぺらい私しか出来上がっていなかった。
就職先から配属先の希望を聞かれた。
どこか地方に配属かと思ったが、東京を希望した。
本社は東京。大きなクライアントは東京に集中、若い内から高度な案件に携われるようになりたい、とかそういった新人が考えそうなことを並べてお願いしてみた。
希望が通った。
本当は会社が決めた配属先でいい、と答えるつもりだった。
が、知り合いから『絶対東京がいい、東京と答えておけ』と強くプッシュされたので東京を目指した。
本当は大阪や東京といった大都市で働きたかった。だから嬉しかった。
一人で考えて決めていたら、自分の希望を伝えることなんてしなかっただろう。
『私なんかが、希望を言って言い訳がない。もっと優秀な同期がまず希望を叶えられた方がいいに決まってる』なんて、自分を押し殺しただろう。
未曾有の大惨事
大学卒業から東京へ行くまでの間、実家に戻っていた。
学生寮から逃げて、急ごしらえした狭い部屋ともお別れ。
実家でテレビを見ていると、緊急地震速報が流れた。
遠く離れた東北地方で今まで聞いたことない規模の地震が起きた。
皆騒然とした。かなり距離のある私の地元まで津波の警報が来ていた。
次第に情報が集まり始め、映画のワンシーンのような恐ろしい映像がテレビで流れ続けた。余震も絶えず続いている。
聞いたことのない数の被害者がいる。テレビを見るに原発にも影響があるらしい。
東日本全域で物資が足りず、電力も逼迫している。パニックだと。
東京に向けて既に送っていた荷物もちゃんと届くかどうか怪しいらしい。これから東京に出ていくのに大丈夫かな、どうなるんだろう、ということばかり頭に浮かんだ。
東京に出る頃には、東京には水が売っていないという話になっていた。
怖さもあったが、社会人生活への期待もあった。
ヤバそうな状況の中、私は東京へ向かった。(続く)
(毒)親元を離れて暮らす
ほんとうの意味での『ひとり暮らし』
生活保護から抜けて、自分の国民健康保険証を作った。
もう生活保護の子として、生活が守られなくなった。
病院にはあまり行かないようにしないとな、と誓った(直ぐ歯医者に通うこととなる)。
国民年金は猶予の申請。
年取った時に払ってくれるかどうか分からないもん払ってる余裕なんてない。
今日を生き延びなきゃ。
大学1年生〜Dropout of the dormitory〜
大学では、寮に入った。
寮は今まで経験したことがないほど縦社会の、上下関係の厳しい世界だった。
大学の寮は学生が自治していた。
寮生たちの考える自治とは、縦社会で支配された、物理的に汚れた空間で、毎晩酒を飲み麻雀を打つということだった。
年齢の違う人との共同生活は孤児院で数年は経験した、が、こんなに合理性を感じられないルールに縛られてはいなかったと記憶している。
寮では、各学年が混合した相部屋で暮らすこととなった。
上級生がいる時は常に下座で正座、1学年上の先輩から敬語を間違うとチクチク注意を受ける。上級生の命令は絶対。
部屋は全室喫煙。実家を出て、やっとタバコから逃れられると思っていたら、相部屋はとてもスモーキーだった。
寮には門限があり破ることは許されないと教えられた。
風呂トイレは共同で、風呂はボイラー稼働の都合なのかなぜか上級生と一緒に。
寮の行事も多々あるらしく、その行事の期間は学業よりも専念することとなっているとのことだった。
先輩の中には留年している人も多かった。
家庭が貧しいから寮に入っているのに、寮に入って留年するというのが、大学生になりたての私としては全く理解できなかった。
運動部に所属したこともなく、ましてやゲイの私には、体育会系の組織、しかもその中で共同生活することは無理だった。
(ゲイで全寮制の学校に通った知り合いによると、そこで性的な関係があったと語る人も少なくはないが……)
折角大学に入れたのに、大学よりも日常生活で苦労をするのか。母から離れてひとりで生きていくのに、次に待ち受けるものがこれか。『うまく行かねぇな』と悪態をつくほかなかった。
今思うと、ここで体育会的な素養を身につけることができれば、今より社会に適応できるまともな人間になれていたかもしれない……
そうこう考えている間の数日のうち、退寮した子がひとり、ふたり。
同じタイミングで入寮した子たちも、『流石にこれは……』といった様子で、顔を合わせると『早く寮を出たいね』と言い合った。
上級生と同じ空間にいるという緊張であまり眠れない日が続いた。
粗相をしないように、間違えないように息を殺して生きた。
初めてのアルバイト代が入った頃、私は根を上げて、親戚に連絡をした。
『もう無理だ、寮を出たい。どうにかできないか。』と。
時間を作って、荷物を引き取りに来てくれることになった。
わざわざ。大学入学早々、負けてしまい迷惑をかけてしまう自分が情けなかった。
親戚への感謝と共に、こういうときに簡単に甘えられる『親』というものが欲しいな、とつくづく思った。
次の家が見つかるまで、たまたま同じ高校出身の子が同じ学部にいたので、その子に頼み込み、数日泊まらせてもらうことにした。ありがたかった。
『いらないよ』と言ってくれたが、きちんと彼に金一封をお渡しした。その頃は人の好意にタダで甘えるのは絶対にダメなこと、少しでも金銭的対価を払わねば、と頑なに考える癖があった。
その日のうちに不動産屋に行き、格安のアパートを見つけた。学校激チカ。
敷金と礼金もバイト代と奨学金でギリギリ賄えそうだった。
ただ、カツカツ過ぎたので奨学金を増額する申請をした。
未来の自分への負債が貯まるばかりだった。
高校までと同じように、自転車で生活できる範囲で生活した。
田舎の大学生ともなると原付や車を持っている子が多く、人と行動範囲が違った。
田舎だったので、電車などの公共交通機関はない。
車やバイクがないと、すぐに毎日同じ風景の繰り返しとなった。
大学でひとり暮らしになれば、恋人でもできるのかな、と淡い期待を抱いた。
引っ越したところで田舎。同じ嗜好の人が集まる場所などなく、そんな場所に出向くこともないので、ドキドキの予感すらなかった。
ただ、ひとりの狭い部屋は気楽で生きやすかった。
それに、人生で久方ぶりに家にガスが通っている。自宅で自由にシャワーが浴びれる。一人暮らし最高。
知らない土地、知らない部屋。家族や友達もいない。そんな孤独と期待が入り混じる春だった。
気になるの芽
人付き合いが苦手な私にとって、クラスという概念のない大学で友達を見つけるのは、目を瞑って針の穴に糸を通すほどの難易度。
部活やサークルに入れば良かったが、今までスポーツをした経験もなく、上下関係に怯えてしまっていて、酒も苦手な私は、『上下関係、飲み会、ワイワイ』というサークルにも足を遠ざけてしまっていた。
『お金ないし』と色々事前に諦めていた癖が抜けず、新しいことに挑戦する、気になることをやってみる、好きなことを見つけるという心の芽が、育たなくなっていた。
必要最低限のことだけをこなして、あとの余分なことはしない。我慢。
それに大学生活を成立させるには、まずはバイトしなきゃ学費払えないし、生活に慣れてからサークル入れるかも、と先延ばしにしてしまった。
後になると関係が固定化され、途中で入りづらいだろうということは考えてもいなかった。
これが本当に厄介な悪癖となった。心に好奇心を芽生えさせ、気になったらそちらに向かってみる。気になる自分を許すという作業を、暇な4年間でやっておかなければならなかった。
目の前生活を理由に、そういうのからは全部目を背けた。
大学の授業も、『ユリイカ!』と叫びたくなるものを見つけられなかった。
授業が悪いわけではなく、私自身の内側に何にもなかったから。
その割に、手に職をつけるとか公務員を目指すべく資格試験に励むとか、そんなことを考える頭もなかった。
私は、1年の間に暇な虚無に仕上がっていた。
苦労してPCを買う
大学2年生。
大学1年の間、自分のPCを持っていなかった、正確に言うと持てなかった(当時は今よりは高かった)。
レポートも学校のパソコン室に行き作成した。周りでPCを持っていないのは私くらいだった。人生で、私だけ『ない』と感じる寂しさをまた味わうことになるとは。とほほ。
1年かけて、やっとの思いでバイト代を貯めPCを買った。
家でレポートを書けるようになった。
インターネットも契約をした。家でネットにつながる便利さを知った。
iPodも買った。みんな持っていたやつ。音楽が外でも聞けるようになった。
昔より、幾分人に追いつけた気がした。
箸が転んでもおかしいのは幸せなこと
ゼミが始まった。
教授は、あまり人と関わることをしない、淡々としたタイプの男性。
今までも経験上なんとも苦手なタイプ。
ゼミ生としては、我の強い癖のある子が目にも鼻にもついた。
みんなどう仲良くなっていいかワカラナイ状態が半年くらい続いた。
我の強い子たちだけが喋り続けた。
ある日、仲良くなるために、みんなであだ名をつけて呼び合うようにした。
それが功を奏したのか、少しづつ距離が縮まっていった。プライベートでも会うようになった。
そこからは、家に呼び合ったり、飲みに行ったりと仲良くなるまでに時間は掛からなかった。大学で、ようやく友達ができたと感じた。
バイト先も変えた。
バイト先には、偶然にも同じ大学の同級生が3人いた。
すぐに打ち解けた。
バイト終わり、家に集まり鍋をして朝までゲームをするのが恒例となった。
今まで知らなかった。人と一緒にゲームをしたり、鍋をしたりするのがこんなに楽しいこととは。
ゼミやバイトの友達とは、よく腹を抱えて笑った。
道端に倒れ込んで転げて、呼吸困難になるくらい。
高校時代のような男女分かれたグループで、人の悪口か勉強や偏差値の話しかしない陰湿な環境ではなかった。
テレビ、音楽、恋愛、バイト、授業、将来、色々なことを気楽に話すことができた。
私が『ゲイっぽい』と言うことも特に誰も気にしなかった。何も聞かれなかった。
一緒にいて笑えればそれでいい、このグループの中ではなんだか安心できた。
依然、私は将来のビジョンややりたいことなど考えてはいなかったが、冗談が通じる、一緒に笑える友達ができたので、大学生活を楽しく感じていた。(続く)
貧困に直面、受け止めきれず機能停止
世の中、やっぱり金、金、金
高校3年生。受験。
人生の集大成と言わんばかりに、教師たちは生徒を囃し立てた。
運動部の子も引退して、勉強に集中するようになって、ピリピリしたムードが漂い始めた。
いよいよ大学受験が目の前に迫ってきた。
私の頭の中は、受験費用と大学入学費用の捻出をどうするのかということでもちきりだった。
そのことが頭の中をぐるぐる駆け巡り、どうすればない金を、入学前に当面必要な金を作り出せるか。
錬金術……?
まず先立って差し迫って必要な金を用意するにはどうすればいい。
身近な人にまとまった金を出せる人間はいない。
学校は校則がかなり厳しくバイト禁止。
それに当時は調べる術が分からなかったので定かではないが、生活保護受給中に収入があると収入認定されて、働いた分保護費が減ると私は認識していた。
事前に貯金はできない。野菜ひとつ貰っても収入申告しなければならないのに、収入があるなどもってのほか、許されない。
我が家の状態で何か積み立てているわけもなく、もちろん生活保護の制度上学資保険なども契約はできない。
周囲も金に縁遠い人ばかりで、工面の方法も逃げ道も何も知らなかった。親戚中、貧困だったから。
それはそうとして、何に金がかかるのか。
まず、センター試験、国公立大学前期分の試験費用はやりくりすればどうにかなる。
私立は試験受けるのも無理、自明。考えたこともない。
次は、受験地まで行く交通費と宿泊費。
その後、入学金と新しく借りる家の家賃、敷金、礼金。
教科書代、国民健康保険料や数ヶ月分の生活費。湯水のように金が飛ぶと容易に考えつく。
奨学金を借りても、足りそうにない。
何のために高校通ったんだろ。
そもそも、生活保護で育った子どもは、大学に進学することを想定されていない(その分に余計に給付があるわけではない、血税だしと)。
私の時代は『贅沢で歓迎されない』ことだった。
制度として貧困の再生産を助長している。
はぁ、じゃあ大学に行けると決まったらどうすりゃいいんだ。
18歳になったら生活保護から外れて世帯分離か一人暮らし。
それ即ち、すぐに自分の食い扶持を稼がなければならないというルールだった。
親と暮らしながら地元の大学に行くとしたら、世帯分離を申請する。ただ、その点について正しい情報にアクセスする術を知らず、自分で働いた分の給料が多かった場合、生活保護を切られるのではないかと考えていた。
打切りのリスクや将来を考えると、一人暮らしの方が良さそう。
だが、金がない。
血税泥棒は早く働け
私の生まれ育った地域は、不景気で職がない。
大体、大卒でも職がない。
高卒でつける職はほぼない(工業系の高校ならあるかもしれないが、普通科で働き始める子は契約社員、パート、アルバイトだった)。
コネもツテもない。私の通う高校で就職斡旋すると言う話も耳にしたことがない。
だが、生活保護費は確実に減る。
実家で暮らしながら働き始めると、『親を扶養しろ』と市役所から何度も強く言われる。
生活保護を打ち切られたら、親の面倒を見る余裕はない。
生きていけない。
成績が悪いのは概ね自業自得だが、生活保護の子として育ったばっかりに浪人はほぼ無理に等しかった。
自分で十分な生活費を稼ぎながら、『予備校に通いながら勉強漬け』の子を打ち負かさなければならない。
そもそも『持っていない』側の人間が上を目指したいなら、人より何十倍も努力をしなければならないという現実に直面した。
辛かった。
自分の人生辛いことばかりだと思っていたが、まだ我慢が、努力が足りないのだと言われている気分。
若しくは、『分不相応なことを望むな、お前には運も才能もない』とハッキリと言われたような気分。
泣きっ面に塩を塗りつけに来る蜂
春先から毎日そんなことを考え、答えのない日々を送っていた。
最後の追い込みと気合を入れているクラスメイトが頑張っている夏休み、私の左耳が突然聞こえなくなった。
耳が詰まった感じがして、低い音が聞こえない。
焦った。理由もわからず、ただ焦った。
数日すれば治るかと思って放置してみた。治らない。
これは、ダメだと思い近くの耳鼻科に行った。どうやら中耳炎とか、耳の気圧の問題ではないらしい。
大きな病院の紹介状をもらいその足で病院へ向かった。
聴音検査をして問診。
『突発性難聴ですね、早めに治療を始めないと聴力が戻らない可能性があります』医者は淡々と言う。
『何それ、ヤバいやつ?』
今受験控えてるし、金なくて悩んでるんだけど、今病気しなきゃいけないの?
人生の不公平さを睨め付けながら、悔しさから唇を噛んでみた。
とは言うものの、冷静、と言うか諦めるのが得意な私は、この夏をさっさと諦めて、人生に足手纏いな病気を治すことにした。治るのかどうかよく分からないが。
それから、毎日点滴に病院へ通うこととなった。
夏の夏期講習は行けなかった。教師に事情を説明するも、特に関心がなさそうだった。
医者は『ストレスが原因な場合が多いです。ストレスを溜めないように。』と言った。
これは、30を超えた今でもよく理解ができないのだが、『ストレスを溜めない』方法がわからない。ストレスを溜めないようにどうすれば良いか考えている時点で、ストレスが溜まっていると言うのに。
簡単にいってくれるな、先生、あんただったら、あんたの子どもだったらどうすんだよ。
ストレスの原因は明白だった。貧困に真正面から向き合ってしまったから。
大学に行くための費用のことでストレスがかかって、脳味噌がパンクしてしまったのだ。
『健康』と『大卒という学歴』を天秤にかけた時に、『健康』を選ぶより他なかった。耳がおかしい状況が常態化するのは避けたかった。数少ない楽しみである音楽を聴くことすらできなくなる。
ただ、それは、大学に行かねば貧困の連鎖から逃れることができないと盲信していた私には酷な選択でもあった。
現役で大学に入れないと、大学に行けるチャンスが狭まってしまう。
人生自転車操業。一度止まるとすぐに身体ごと車道に横転、即死亡。
簡単に浪人して、来年もっと素敵な大学に入ることなどできないのだ。
自分で自分を養う金を作り、それで人に勝てるまで勉強をする、耳が治っているか治っていないかに関係なく。
そうこう考えても、どうにもならないので勉強と金策について諦め、治療に集中することにした。
待ち受けているかもしれないヒドイ未来が、あまりにも私を虐めてくるので、私は『治療中』を言い訳に逃げた。
とりあえず耳を治すには、嫌なことには蓋をしてゆっくり休むしか方法がなかった。
一週間程度点滴を打ったが、治る気配がなかった。
医者曰く『点滴で治らないと別の病気の可能性がある。メニエール病』とのことだった。
その日からそれ用の薬を飲むことになった。
数日毎に病院へ行き、聴力検査をする日々が続いた。
メニエール病用の飲み薬『イソバイド』は、喉が焼けるほど甘く、後味として酸っぱ苦いシロップで、何度飲んでも全くなれず、不快な気分になる。
ただ、それを飲む前後は、不味さが勝って本来のストレスを忘れさせてくれた。
イヤホン音楽に没頭するのが好きだった私は、楽しみが奪われて、それもストレスになっていた。宇多田ヒカルの『ULTRA BLUE』を繰り返し繰り返し聴きたかった。
このアルバムは心情的にも、タイトル的にも私に寄り添ってくれた。私はこの時、『ウルトラブルー(超鬱)』だったから。
夏休みが明け、新学期が始まる頃には、聴力もほとんど回復していた。
だが、全く心は虚無で何にもやる気が湧いてこなかった。
自分自身の事をこれほどまでに『どうでもいいや』と思ったこともなかった。情熱はなかった。
学校には適当に行った。
志望校を出せ、志望校を選べと学校がうるさいので、苦手な科目の二次試験がない近隣の大学を選んだ。
身近な親戚内には、大学に行ったことがある者がいなかったので、大学は未知の、いささかハードルの高いものであった。
保護者サポートプランなしのコースで
無為に過ごしていると、センター試験当日。その朝が音もなく目の前に現れた。
キットカットを食べたからどうにかなるかな、と思いながら本番。
不得意な科目では鉛筆を転がして解答を決めた。
センター試験の帰り道、『他の子とはベースの環境が違うな』としんみりしたのを覚えている。
皆は、試験後には親が車で迎えに来ている。心配そうな顔をして、親が子を校門で待っている。
そういえば、小中学校の卒業式とかもこんな気分になったっけ。
親、来たことなかったもんな。
案の定、二次試験もそんな感じだった。
同じ大学を受けるクラスメイトは親と一緒に現地に来ていた。私は自分で予約した格安ビジネスホテルに、一人で泊まった。
あぁ、受験って、自分自身が勉強で頑張るってだけじゃなく、親のサポートとか環境もあるんだ、今まで気づかなかった。
志望校選択
センター試験の自己採点を終えた頃。
『あっ平均ないなこれ』はっきり分かった。
行けるかどうかは別にして、とりあえず出願する大学を決めた。まあ行けるんじゃない?というレベルの国立。
私は家を出たかった。母や親戚から離れて暮らしたかった。
母は前より穏やかになっていたが、近くにいると新しい人生が始められないし、ここで外に出ないと一生この場所から逃げられない気がしていた。
それに、田舎で何もない街にほとほと嫌けがさしていた。刺激が何もない。
ただ、あまりにセンター試験の結果が悪かったので、田舎のエリアを出ることはできそうになかった。
金銭面でも都会へ行くのは到底無理な話だった。
都市部へ行くには、私立に行くか、国公立に行くにはそれ相応に勉強できなければならなかった。生活費も田舎とは比べ物にならないほど高い。残念。
冗談で『浪人しよっかな』と親戚らに言ってみたが、
『浪人したら東大や京大に行けるようになるの?今の時点で勉強してないし、できてもないんだから浪人しても、今志願してるよりレベルの高い大学に行くのは難しいと思うよ』と返されて、ぐぅの根も出なかった。ぐぅ正論。
奨学金の前借り制度があるので、入学金は払えそうと知った。朗報だった。
奨学金の借りる額も、最初は多めに借りておくことにした。勉学に励んでこなかったせいで、有利子しか借りられなかった。
とりあえず、将来の自分に借金をして、今をなんとか生きることにした。
やれやれ。別の高校行っときゃよかったわ、と他人事のように自分の高校生活を振り返った。覆水盆に返らず……返れよ。
合格、一旦何とかなりそう
大学には合格していた。
インターネットで結果を見たのか、合格通知をもらって知ったのか覚えていない。
入学が現実に近づくと、大学に寮があるのでそこに住むための申込み、奨学金関係の手続き、それに授業料免除の手続き等々、金のことを詰めていかなければならなかった。
親戚が書類面ではサポートをしてくれた。母は一切役に立たなかった。
高校卒業から大学入学の間までに少しでも金を稼ごうと、アルバイトを探したが、すぐすぐに雇ってくれるところは見つからなかった。
採用はされたが、中長期での労働を希望されたり、働き始めるまでに時間がかかるものばかりだった。
日雇いや取っぱらいのアルバイトを見つけるには情弱だった。
周りに良い大人がいない、しかも友達が少ないと情報で負けるなと感じた。
生活費を切り詰めて、密かに残しておいた生活保護費を大学入学して初めてのバイト代と奨学金が入るまでの生活費にするしかないと心に決めた。
ギリギリ生活できるかどうか、まずは最初のバイト代が入るまで・・・明るいスタートなはずなのに頭の中は、金、金、金で胃が少しキリキリした。
いよいよ大学へ向けて出発する日。
一人高速バスに乗った。出発前に、いつも世話をしてくれた親戚から封筒をもらった。そこには、手紙と一緒に数万円包まれていた。
簡単には受け取れないお金だった。その人も収入はほとんどなく、なけなしのお金を包んでくれていると知っていたから。
その人が日々薄給を嘆き、貧しい状況に苦しんでいるのを、ずっと見てきていたから。私のためにそんなにしてくれなくても、、、
それでも、『受け取って』と封筒を渡され、私は受け取ることにした。行きのバスで、『この恩は必ず出世払いする』と誓い、見慣れた街をぼんやりと眺めた。(続く)
全部は叶いません〜あなたは希望をもって生きてはいけない人間です〜
せんせい攻撃
高校2年になった。
男の、人の感情について理解するのが得意でない、若しくはそういうスタンスを持たない教師が担任になった。
ロボットみたいな喋り方の、表情の乏しい男だった。
進級後すぐに、『これまでの1年を振り返ってどうだったか』を点数化して振り返る課題を与えられた。それを元に、生徒と担任が面談をするそうだ。
私は正直に最低点をつけた。どの部分を切り取っても、良いと思える瞬間が見つけられなかったから。
担任からのフィードバック時、『なぜこんな低い点をつけているのか?これはお前がおかしい。楽しくする努力はしているのか?1年を振り返って、良い年ではなかったのは自分の責任である。勉強面での成績を下がっている。この成績では、志望校どころかそれ以下の大学にも行けない。考え直せ』と言われた。
担任就任間もない関係性もできていない頃に。いきなり先生からの先制攻撃。
ハナから私が悪いと決めつけた、叱責するためだけの時間だった。
いじめの件を伝えたが、その話は流された。理解する気もないのが感じ取れた。
これじゃあ説明しても無駄だ。最初から聞く気がない人に必死になったら、こちらの負け。余計自分が傷つく。
いじめの件の申し送りがあったにせよ、なかったにせよ、理由も聞かず一方的に否定されたことは、彼への信頼感を一瞬で奪い去った。
私は、これ以降、彼とまともに話すことができなくなった。
『何を言っても否定されそう、聞いてもらえなさそう。一方的に考えを押し付けられそう。』と。
関わると、傷つけられる予感しかしなかった。
根腐れ
2年に上がって早々、これ以上底はないと思っていた学校に対する気持ちには、2番底があることを思い知らされた。
セカンドレイプだろ、これ。
その頃には、ほとんど勉強をしなくなっていた。
昨年、心ないクラスメイトから与えられた精神的苦痛が尾を引いていたし、担任への拒絶感も気持ちを後ろ向きにさせた。
そして、そういう大義名分が自分の中にできたので、どんどんどんどん怠惰になっていった。
根まで腐って、水をやっても花は咲かないことを自分でも分かるくらいだった。
他に打ち込める趣味でもあれば救いがあったのだが、ファッション雑誌を読むか、流行りの音楽を聴くか、近所のスーパー銭湯に行くくらいしか時間を潰す術を知らなかった。
金のかからないことをして、時間を潰すしかなかった。
そう思いながらもとりあえず学校には行っていた。
高校生活の毎日は、今となっては思い出せないくらい、一日一日が退屈で、苦痛な日々だった。本当に退屈だった。ただただ長かった。
母はというと、依然物忘れが激しく、よく笑うおどけたおばさんになっていた。
その分、記憶力や思考力を要する込み入った問題について話し合うことはできなかった。
が、そんな話は以前から、能力的にできたとしても物理的にできなかったので、大差はなかった。
私にとって、何かを話したり、相談する相手についぞやなってくれることはなかった。
人生、こっちが立てば、あっちが立たず。
『家庭も学校もうまくいく、少なくとも一般的とされる同い年の子程度には』という望みは、私には高すぎる望みなのだと思い知らされた。
将来のことなど考えてはいなかったが、さっさと高校卒業してしまいたかった。(続く)
希望に満ち満ちた高校生活
高校1年生
高校生活、中学時代はあれほど調子に乗っていたのが嘘のような時代。苦役。
結論から言って、高校生活丸々3年間全くうまくいかなかった。
よく通って、よく卒業できたな、と今なら褒めてあげたい。
小中学校は、見知った人が多い環境で、『おかま』な私をみんな見慣れてそこそこに受け入れていたが、学区問わず、あらゆる地域から集まる高校では、私がとても異質だったらしい。
高校のクラスは、男女比で言うと3:1くらい男子の割合が多いクラス。理系。
中学時代と違って、みんな真面目。
あまり人と喋ったりはしゃいだりするのが得意な人たちではなかった。
グループで固まると言ったら、同じ部活か同じ中学校同士でグループ。
朝、学校に来ても、皆黙って宿題をやっているような環境。
昨日何のテレビを見たとか、雑誌の話とか、そう言うのは皆無だった。
後から知ったが、男女で話をすると、付き合ってるとかどうとか噂になって面倒だから、教室の中では話さないというのが暗黙のルールのようだった。
仲がいい男女は、裏でメール。
なんだか馴染めない空間だな、と思いながら始まった高校生活。
するとすぐに、ある男子生徒から悪口を言われたり、すれ違いざまにぶつかられるようになった。
集団での暴力や無視等はなく、その個人が私に対して敵意を剥き出しにした。
先に私が何をしたのか記憶にないが、何かしたならその理由を教えて欲しかったし、それを理由に人に嫌がらせしていい理由にはならないと思っていた。
それに、彼に嫌われる云々の前に、彼とろくに話したこともなかった。
『なんか気持ち悪くて、気に入らない』などという理由で、いじめの対象にしやすかったのだろう。
私はその対象にされるのが、ずっと鬱陶しかった。
私をいじめる彼は、中学生時代には人から嫌われていて、元々はいじめられっこだったらしい。彼と同じ中学の子に聞いた。所謂高校デビューだと。
ルックスはカッコいいと言われモテていた。勉強はあまりできないみたいだった。
いじめ、加害者はやり得
また、私は別の生徒からもいじめを受けた。
その子も同じクラスの男子生徒で、入学当初は、出席番号も近かったのでよく話していた。
だが、席替えなどもあり、話もあまり合わなかったので話をしなくなっていった。ただ、私は彼の悪口を言ったりはしていなかった。
ある日、教室に私を名指しして、悪口を書いた紙が貼られていた。
それが教師に見つかり問題となった。
教師に見つかる前に、私も気がついたが、自分で剥がすのも面倒でそのまま貼っていた。
パッと教室を見回したとき、犯人が誰かはすぐにわかった。
そしたら、教師に見つかり、ホームルームは犯人が見つかるまで延長されることとなった。夜遅くまで全員教室に残ることに。
私の件で、関係ない人たちクラスメイト達が帰れずにいるのは、居たたまれなかった。同時に、被害者である私が、なぜ他の人たちに申し訳ない気持ちにならなければならないのだろうと、疑問に思った。
加害者を探す、犯人探しの場面においても、なお被害者がまだ辛い思いをしなければならない。おかしいと。
最終的に、犯人は見つかり、教師に注意を受けた。
彼が叱られている間、私は別室で待たされた。
お灸を据える時間が終わると彼と私は引き合わされ、彼は教師に促され、私に謝罪した。
特に心からの謝罪には見えなかった。
教師は、この件を一旦終わりにするための形式的な儀式として、私に彼との握手を求めた。
私は、断った。この場は丸く納めてやるのが教師として都合が良い分かっていたが、犯人の態度も、握手でシャンシャンな軽率さにも納得がいかず、意思表示をした。
これ以上責めるつもりはないが、許さないと。
後日、別の教師から、加害者である彼も、母が亡くなり父子家庭で辛いところがあると言う身の上話を聞いた。
それは、私には全然関係ない。
家に帰るのが遅くなった私は、いじめを受けた件を親と親戚に報告した。
自分で自分がいじめられた話をするという辱めを受けるとは思わなかった。
親戚達から『可哀想に』と思われるのが嫌だったし、そう思わせるのも悲しかった。
学校から彼の保護者に、この件に関して連絡を入れてはいないのが納得いかなかった。加害者は、黙っておけばそのまま自分の罪を家族に隠し通せるのだ。
家族を心配させなくて済むのだ。
そこは、学校が加害者の親に、その子どもの加害を伝えるべきだ。
親の庇護の下にある未成年の子どもなのだから、親も知る責任がある。
子ども同士の喧嘩のように、当人同士で処理しようとする、何もなかったかのように握手させて終わる、事なかれ主義のような学校のスタンスには反吐が出た。
私は反省していない彼からではなく、彼を大切に可愛がっていて、彼に責任のある彼の父親から謝って欲しかった。
とは言え、こちらの親も学校相手に強く出れるほどしっかりしていないし、学校に訴え出る能力がないことは理解していたので、私はどうしようもない怒りを諦めて、そっと蓋をすることにした。
家庭環境が落ち着き、以前よりは『マシ』になり始めた頃、
学校生活に暗雲が立ち込めて、私は人生の上手くいかなさを目の前に途方に暮れた。
人間関係のうまくいかなさ、いじめ、が続くにつれて、勉強も身が入らなくなった。
『言い訳』といえばそれまでだが、少しずつ、何もかもどうでもよくなり始めていた。
そもそも、学校に行きたくなくなっていた。
犯人は私に危害を加えなくなったが、もう一人の敵意を向いてくる彼は依然変わらなかった。無視した。
私は、一回学校を休んでしまうと、もう何もかも面倒くさくなって、学校に行かなくなることを心のどこかで理解していた。
生活保護で高校留年、酷いと中退、と言うのは何がなんでも避けなければならなかった。
貧乏から抜け出したい、生活を変えたい。そのためには、この貧困の再生産を、負の連鎖をどうにか断ち切らなければならないから。
中学時代からずっとそう考えてきた。
だから、嫌々学校には通った。成績は底知らずの右肩下がりで、どうしようもなかった。
最初は、『勉強って継続する努力と、気持ちの問題で解決できるもの』と思ってきたが、そのうち私にはそもそもそんな才能も能力もないのだと思うようになっていった。
ますます学校が嫌いになった。
かすがい、心の拠りどころ
家庭では、人生で初めての出来事が起こった。
子ネコの世話を始めたのだ。家族が増えた。
最初は、家の庭に雄ネコが現れ、次第にメス猫も来るようになった。
親戚や祖母も来て、たまに餌をやっていた。
そうしている内にいつの間にか子どもを産んでいた。
母は動物が好きではなく、子ネコを飼うことには猛反対。祖母達によくくってかかってネコの世話を家の庭でするな、と金切り声をあげていた。
呆けて物忘れが激しくなっていたが、自分の主張を通したいと怒り散らかす時は、以前の母と変わりがなかった。
呆けても三つ子の魂、なのだ。
冬のある日、複数いた子ネコの内、1匹の前足が折れてしまっていることを親戚が発見した。
親戚は母の食料を買うついでに、ネコの世話の為に毎日家に寄ってくれていた。
あまりに可哀想で、このままなら冬を越せずに死んでしまう、と言うことで家の中にその子ネコを招き入れることにした。
母は気が狂ったように反対したが、以前ほど怒りも長く持たず体力も衰えてきたようで、最終的には一時的に家に入れることを認めた。
ただ、一切ネコの世話はしない、『大家に動物を飼うなと言われている、生活保護でネコを飼うのはおかしい』と言い残した。
近所の人も犬を飼っていて、汚いボロ家なので大家も五月蝿いことは言わないし、生活保護で酒やタバコを嗜むのは良いことなのかを考えた発言ではなかった。
きょうだいの子ネコ2匹をなんとか捕まえて家に入れると、風邪を引いて目やにがべったりな状況だった。
親戚が献身的にミルクを飲ませ、病院に連れて行き、なんとか一命を取り留めた。折れた前足を治すことは難しかった。
もう一人のネコは家ネコになりたがらず、家に入れておくと暴れ回るので家から出すことにした。
足の折れた子は力もなく暴れもなかったので、なし崩しで家ネコにすることにした。
しばらくすると子ネコはかすがいになり、母と私の関係も穏やかなものになっていった
母はあまり世話をしなかったがそれでも彼女なりに可愛がり始めていた、私としてはそれがなんだか嬉しかった。
無の日々
学校では、何も面白くないまま過ごす日々が続いた。
会話するクラスメイトはいたが、誰とも話が合わなかった。
担任の教師に面談で、人と合わないし、いじめられた件がずっと辛いとぼやいてみた
が、『あなたは周りより、大人だから話は合わないかもしれないね』と言われて流されて終わった。
授業で関わる人以外の知り合いができないままだった。
趣味もなく、部活はやってなかった。世界が広がらなかった。
家に帰って、自分のエサの買い出しや家事をしなければならなかったし、そもそもお金がなかった。
贅沢は一切していなくても、入った分、丁度出ていく。
何も貯まらない。
何をやるにもお金がかかると思っていたから、何にいくらかかるかを考えることもハナからやめていた。
『本当にやりたいなら、お金は自分で貯めて』、『何にいくらかかるかを調べて、諦めず』等と言う外野の声があるのも分かるが、何からどう始めていいか、基本の考え方が最初から備わっていなかった。
お金がかかることは、大抵最初から諦めなければ、あとで自分が辛い思いをすることを十分に学んでいた。
そう言えば、幼少期に母に色々せがんだときによく言われていた。
『下を見て生きろ』と。(続き)
似て非なるもの〜Who Is She?〜
安寧、決着、そして忘却〜中学3年生〜
初めての受験。成績はすこぶる良かった。県でも1番をとった。
この世の春だった。
井の中の蛙、人生の中で唯一調子に乗っていた時期。
『おかま』でも勉強ができたことによって、学校で虐げられるようなことはほとんどなかった。
特別好かれていたわけではないが、仲良く話せるクラスメイトもおり、なんとか居場所を獲得していた。
高校も難なく合格できた。
細かい時期は覚えていないが、そこそこ長い入院期間を終えて母が退院した。
長いひとり暮らしの終わりで、母が帰ってきてうまく一緒に暮らせるか不安だった。
また口論と絶望の日々への恐れもあったし、帰ってきた母が喫煙をするのも嫌だった。
母は、入院を機に当然酒を絶っていた。
そして遂に断酒を成功していた。病院の矯正力、素晴らしい。
それに、以前のように被害妄想に取り憑かれたり、幻覚を見たり、すぐにヒステリックになって怒鳴り散らすことはなくなっていた。
本人の気質として、口論をする、言い返す癖はそのままだったが、大分マイルドになっていた。
それに前とは打って変わって、よく笑う。
外側は同じだが、中身をすり替えられてきたかのような感覚を覚えた。
ロボトミー?
ただ、物忘れが酷くなっていた。昨日のことが、さっきのことがよく思い出せない。
何度言っても、紙に書いて復唱させても、ものを覚えられない。
昔のこと、本人が覚えておきたいことは覚えているが、最近の、生活する上で必要なことが覚えてられない。
彼女の性格が変わったおかげで、私はすこぶる穏やかになった。
何度言っても、ものを覚えられない母にイライラしたが、昨年までの嵐のような日々はもうなかった。
あれと比べれば、よく笑う呆けた人の方が何倍も好ましかった。ようやく、落ち着いて生活ができると喜んだ。
グレるもの、正しく生きるのも難しかった
事情を知る祖母や親戚からは、中学生活を通して、『よくグレなかったね』と言われることが多かった。実際には、母に対してはひどく荒れていて、正しくは生きれていなかった。
グレようにも、気持ち悪がられていたので不良の輪にも入れないし、グレるならグレるだけ金がかかることも分かっていた。
親から買ってもらうタバコ、貰った金で買う派手な服、うっかり出来たら堕すのも親の金。私には無理だ。
そこそこの家の子達の彼らが、なぜ非行に走るのかがよく分からなかった。
ヌルいとこで甘えてるな、甘えて歯向かってて羨ましいなと思っていた。
そんなん甘噛みじゃん、と。少なくとも私の学校で非行にはしる子達にはそう思っていた。
母にも、親戚にも、楽しく話はできるがそれ以上ではない友達にも、グレてる人達にも、名前も知らない大人の男の人達にも、どこにも属せず、孤立している感覚で3年間を過ごした。
誰も私の断片しか知らない。他人には自分の全ては見せないように生きていた。
ハードアンドタフ
思い出すと、生きていて辛かったのがこの時期だった気がする。
生きていると、いつだって今が一番辛いと感じるが、私にとってはこの時期はハードでタフだった。
ふと思う。
母との喧嘩や、手を上げた報いを受けて、私はこれから幸せになれるのだろうか、私が幸せを感じないのはその報いなのだろうか、と。この人生は罰なのか。
ふと思う。
これまでの艱難辛苦の何一つ私が求めたものなんかじゃない、と。
求めていない運命への抗い方を間違って、罰を受ける人生なら最初から生まれたくなかった。
生まれてからの辛さも私に与えられた罰、辛さへの対処方法も正しい方法ではなかったので更に追加で罰。何したんだろ、私。
今になって分かる。こういうのって、因果じゃなく、運なのだと。
そして、悪いこともあれば良いこともあるのだと。(続く)
ハイテンションママ
中学2年生
この夏の母も、調子が鰻登りで赤マル急上昇。稀に見る絶好調。
トイレでいきなりぶっ倒れた。
貧乏長屋の汲み取り式。
トイレの真向かいにある水しか出ない風呂場で、行水をしていたら、ドタドタドタッッと大きな音。
慌てて風呂場の戸を開けると、仰向けに倒れた母。
排泄物と吐瀉物を床にぶちまけて、気絶をしていた。
まずは驚き、次に汚さに慄いたが、命の危険を心配してひとまず風呂場へ引き摺った。
咄嗟に、『仰向けに寝かせていては危険だ、窒息するかもしれない』と思い横むけにした。
吐瀉物が詰まると死ぬと学校の保健体育で習った気がした、私の判断は正しかった。
我ながら、ピンチな時に冷静だなと思う。
助けが必要だったので、急いで自転車で近所の祖母の家へ行き、家に来てもらった。
この時電話は既に解約してしまっていた、母がイタズラに電話を掛けまくって迷惑だったから。
近所にこの醜態は晒せなかった。母はしばらくして意識が戻り、床で安静にしたら健康に戻った。
倒れた理由は、病院で処方された抗酒薬を酒で流し込んだから。
親戚と床を綺麗にしていると、本当に馬鹿らしい気分になった。
なんで自分ばかりこんな目に遭うんだろう、と。
この頃は、毎日毎日にお互い大声で喧嘩をしていた。
酒を飲み、どこかしこに失禁をする母。
祖母に預けている金を、『どこに隠した』とひどい剣幕で学校に電話をかけてきたり。
何度も何度も、同じ話をしても噛み合わず、一貫した会話ができない状況。
ヒステリックに叫ばれる状況にほとほと疲れていた。金切り声をあげて叫ぶ。
目の前にいる人間と、親と、まともにコミュニケーションが取れない。
『産むんじゃなかった』、『生活保護の金は私がもらっている金は私の金』、『警察に突き出してやる』と叫んだり泣いたりする姿を見るのもうんざりだった。
口を開けば、酒か金の話。しかも支離滅裂。
諦めても諦めても、コミュニケーションが碌に取れない状態の肉親と接するとき、どうにかすれば分かり合えるかもしれないと淡い期待を抱いてしまう。
失敗すると、逆に絶望が大きくなり、怒りが爆発。
認知症の親の介護や、障害のある引き篭もりの子等のケアをする人の気持ちが分かる気がした。
家族だから分かり合える、は甘い考えだ。家族だから、もっと深い絶望がある。
母に死んでほしいと思っていたし、いっそ殺してほしいとも思った。
手を上げること、一番やってはいけないことと分かりつつも、そうされたくないなら、私を施設にでもどこにでもぶち込んでくれと思っていた。
18歳まであと数年、こんな日が続くなら。
しなくていい苦労に苛まれながら、学校での成績は、学年で一番になっていた。
この頃は、全教科のテストで満点を取ることを目標に勉強をしていた。
あとちょっと、ちょっとのところで達成されない、でも叶いそうだったので、ヤキモキしながら頑張っていた。
私の生きる世界は狭かった。家庭か学校か。
庇ってくれる、守ってくれる大人も周りにはほとんどいなかった。
母への暴力について祖母達は口では止めたが、私を殴ったり、縛ったりしてまでは止めなかった。
私をこの状況から救うことができないので、口頭で注意するに留めることしかできなかったのだと思う。
行為自体は最低で言い訳ができない。
ただ、親戚のうち一人は、母を叱りながら、依然私の面倒を見てくれていた、救いだった。未だに感謝している。
彼女にしか見えない世界
この夏、母は手術をした。
夜、私と母が喧嘩をした後、母が出ていった際に溝にハマりこけたためである。
脳を撮ると、何やら水も溜まっていたが、既にアルコール依存症により脳の萎縮が進んでることがわかった。
手術の前日、私の元に連絡が届いた。
『母が病室からいなくなった』と。
病院関係者や祖母が病院の周りを探したが見つからない。
夜になっても見つかる気配がない、事故にあっていたら大変だし(病院の管理責任的にも)、明日は手術。
警察には通報せず、一旦朝を待つことになった。
翌朝、病院から祖母宅へ、母が近くの別の病院で見つかったと連絡があった。
なぜかポツリと、入院している病院の、近くの病院の待合室で。
事故で死んでいるとはハナから思っていなかったが、そんな奇妙なことあるもんなんだなと思い、私は塾に行った。
その日、母は手術をした。
溜まった水を抜いた。そこまでは良かった。
術後麻酔が切れてから、様子がおかしくなった。
彼女の様子がおかしいのはいつものことで、どの状態が様子が正常なのかわからないのだが。
最初は医者も、『術後そういうことはある』と言っていたらしいが、どうやら本当に様子がおかしい。
母に付き添っていた祖母から親戚へ連絡があり、私にも連絡が来た。
あまりに様子のおかしい母に、高齢の祖母も気が滅入ってしまい、付き添いを交替したいとのことだった。
『あなたの母なのだから、あなたが面倒を見なさい、あなたの責任でもあるのよ』と言われた。
それを言うなら、『産んだお前にも製造物責任があるだろ、お前が産み育てた娘だろ』と思ったが、私は病院まで自転車を飛ばした。
先に母の元に来てくれていた、親戚に母の状態を聞いた。
聞くに、母は祖母に対して、祖母が母を陥れようとしているという被害妄想を抱き、看護師や医者に対しても不信感を抱き攻撃的になっていたらしい。
それに加えて、病室の下に待っている人がいると言い出し、ナースステーションを何回も抜け出そうとしたり、病室の窓から飛び降りようとしていたとのことだ。
私が病院についたときは、母は病室の壁にかかった絵画を見て笑っていた。その絵画をテレビだと言いはり、大笑いしていた。
それに、彼女はベッド横のソファを座り、ベッドの上には遺体が横たわっていると言い出し、泣き始める始末だった。
『ただのベッドだ』と言っても本人にはそう見えていない。母の大切な人の遺体がそこにいるのだそうだ。それは私の未だ見ぬ父らしかった。
鬼気迫る迫力で『遺体がそこにある』と言われれば、なんだか正常なこちら側がおかしいのかと思わされる、こちらがあちらに引っ張られる。
私の目の前でも、母は病室の窓を開け、『急いで下に行かなきゃ』と飛び降りそうになっていた。
幸い、窓はそう大きくは開かないが、頭一個分はねじ込めそうな大きさには開く。危険。
親戚と私は、精神的にやられた。
看護師や医者の前で、自分の親や親族が常軌を逸した状態にあるのを見て、恥かしく感じた。
それ以上に、目の前の人間に対して恐怖を感じた。
ただ、あまりに異常が続くと羞恥や恐怖を通り越えて、少し笑えてきて、病室で二人笑ってしまった。
今では、身内の中では、特殊で世間様には言えない、でも可笑しな笑い話となっている。
母ともよくこの話をして笑っている。時間が経ってようやく笑いに変えることができた。
今だったら動画に撮って残しておけるのにな。
脱走癖、閉鎖病棟、意味なき涙
母は睡眠薬をもらい眠った。ようやく落ち着いた。
医者の見立てによると、酒が抜けた一時的な影響か、もしかすると統合失調症か何かではないかとのことだった。
『当病院ではこれ以上入院できない』と言い放たれ、翌日から母は精神科のある病院へ入院することになった。
母は、夏場に睡眠時間が短くなると、幻覚を見ることがあったので今回もその延長だろう、オーバーな診断だなと思った。
翌日すぐに、他の病院に運ばれていった。一旦入院することになるそうだ。
私はまた、ひとり暮らしをすることになった。
ある夜、病院から祖母宅に連絡があった。
入院しているはずの母が病院にいないとのことだった。脱兎。
入院して一週間経たない内の出来事だったと記憶している。転院してから、見舞いにはまだ行けていない時期の話だった。
『鍵がかかっていて、看護師がいるのにどうやって・・・閉鎖病棟とは・・・?』
逃げ出すのが特技なんだなぁと、しみじみ思った。脱兎。
今回もあまり心配はしていなかった。ただ、病院の管理には疑問が残った。
翌日、病棟にしれっと戻ってきたとの連絡があった。
懲罰房のような、個室で鍵のかかる部屋に1日入れられるとのことだった。
その後、見舞いに行った。
確かに、閉鎖病棟は、二重扉になっており、その扉の両方に鍵が付いていて、そう簡単には入退室できない仕組みになっていた。
看護師の詰所も入口のところにあって、そこで名前を記入し受付をする。
病棟に入ると、いきなり入院患者のひとりに大声で話しかけられ、後ろをついて歩かれた。敵意はなさそうだったが、驚いた。
母のベッドの横には、じっと下を向いてブツブツ独り言を言っている痩せた女性がいた。
一応こちらから会釈はしたものの、コミュニケーションを取るのは難しそうだった。
母は明るく、ケロッとした態度で出てきた。
前回見たときは、泣きながら幻覚を見たり、病院の窓から飛び降りようとしているくらい逼迫していたが、とても穏やかになっていた。
病院は楽しい、とまで言っていた。
それに既に、母には友達ができていた。先輩入院患者。
一緒に陶磁器を作ったり、お絵かきをしたりするアクティヴィティがあるそうだ。
穏やかになって、ゆっくり過ごせているようで何よりと思った。
その後、母は再びの病室から逃亡を図る。
友達と一緒にいなくなったらしい。
抜け出した後、どう夜を過ごしているのか毎回尋ねても、全く答えが返ってこない。
毎回解明できない空白の数時間がある。
私は、宇宙人か何かに連れ去られて、中身ごと入れ替えられてるんじゃないか、なんて思っていた。
また別の日、親戚と見舞いに行った。
今度は外出許可を得て、近くでご飯を食べた。
彼女曰く、病院生活は友達も多く楽しいそうだ。
食事をし終えて、病院へ戻ろうかという段になって、母が『病院に帰りたくない』とメソメソ泣き始めた。メソメソメソメソ。
優しい親戚は、可哀想にと思い涙を流しそうになったらしいが、私は、さっきと言ってることが違って支離滅裂だな、一瞬の気分で泣いてるだけなんだなと思い寒々しい気分になった。
あぁ昔は、私が泣いて母が去る立場だったんだなぁと思いながら、病院へ送り届けた。
送り届けると、母はさっきの涙は嘘のように明るく楽しそうな様子になった。まるで無邪気な子どものように。(続く)